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海外在住ベトナム人のメディア・エンターテイメント
〜 在日ベトナム人社会における受容 〜

日吉昭彦(武蔵大学)

「われわれ」の文化を求めて
--民族・国境を越える「エスニック」エンターテイメント--

(平成12年度〜平成14年度 文科省科学研究費補助金 基盤研究(B)(1))
研究成果報告書 代表研究者 白水繁彦
2003年3月
p23-p48




一. はじめに

 2001年春のことであるが、筆者は神奈川県にある中学校でボランティア活動を行っていた。日本で育った在日外国人の子供たちが通う中学校で、母国の文化や歴史についての理解を深めるための授業が開かれ、そのための補助のボランティアである。教室には日本語を第一言語とするベトナム人の子供の姿があった。
 神奈川県大和市には「インドシナ難民」と呼ばれるベトナム、ラオス、カンボジア出身の人たちが数多く定住している。こうした子弟のためのボランティア団体が、授業補助や言語学習など、さまざざまな活動を行っている。中学校の主催する教室で母国の文化を学ぶ子供たちは、放課後、こうしたボランティア団体の主催する教室に通うなどして、地区を越えて同じ境遇で育った同胞と出会う。
 あるとき、子供たちがボランティア・スタッフのために小さなパーティを開いた。母国の料理をふるまい、母国の文化を紹介するレクリエーションで感謝を示してくれると言う。文化紹介として、ベトナム、ラオス、カンボジアの踊りが紹介された。3国出身の子供たちが、互いに母国の文化を研究し合い、教え合うことで身に付けた成果であった。そこで「ベトナムの伝統的な踊り」として紹介されたのは、アメリカに移民して活躍するベトナム人歌手Nhu QuynhとManh Dinhのポピュラー音楽ビデオの一幕を再現したものであった。「Hen Ho Dem Trang(月夜の約束)」と題されたこの楽曲は、海外在住ベトナム人の間で極めて人気の高い、Thuy Ngaプロダクションというエンターテイメント産業が発売している「Paris By Night」というシリーズのビデオに、1997年に収録されている。ベトナム語の歌詞がついているが、オリジナルはマレーシアの楽曲である。
 この踊りは在日ベトナム人の高校生の先輩たちがビデオを見て研究し、それをインドシナ出身の子供たちが自発的に作ったサークル・グループに伝え、練習してきたものであるという。その後、この子供たちは、中学校で日本人の子供たちにもこの踊りを教え、発表会で発表している。ラオス出身の少女も、熱心にこの「ベトナムの踊り」を日本人に伝えようとしている。しかし、子供たちは、これが伝統舞踊ではなく、アメリカ在住ベトナム人の手で作られたメディア・イメージであることは知らない。まして、元はベトナムの音楽ではないことには、周囲の誰もが気付いていない(1)
 インドシナ出身の子供たちは、自身の出身国の文化を継承しようとする活動のなかで、まだ若く小さなコミュニティの基盤を作り始めているのであろう。また、互いの文化を教え合い、理解し合うなかで、自己を表現する方法を模索しているにちがいない。
 子供たちが伝統文化のオーセンティシティをどのように理解しているのかは、ここでは筆者の関心ではない。むしろ、子供たちが文化理解のために用いたコミュニケーション・ネットワークや、子供たちが見た伝統的なるものが生成されている過程が、筆者の関心である。
 さて、本稿は、海外在住ベトナム人が興したメディア・エンターテイメント産業に着目し、商品であるパッケージ・メディアや活動しているエンターテイナー、こうしたサービスの在日ベトナム人社会における受容について分析するものである。在日ベトナム人社会におけるメディア・エンターテイメントの機能を明らかにすることが目的である。
 1975年以降、国際社会が、いわゆる「インドシナ難民」と呼ばれる、大量のベトナム人の難民を受け入れてきたことは、周知の事実である。200万人を超える難民を受け入れてきたアメリカには、数多くのコミュニティ・タウンが存在する。その中でも、カリフォルニア南部の郊外都市サンタアナには、「リトルサイゴン」と呼ばれる都市の様相を持つ巨大なコミュニティ・タウンが形成されている。ここには海外在住ベトナム人を結ぶネットワークを用いた独自の産業が根付いている。しばしば海外在住ベトナム人を総称して「越僑」と呼ぶことがあるが、越僑社会を市場にした産業が存在しているのである。
 上記のThuy Ngaプロダクションは、その代表的な存在で、越僑社会を市場にメディア・エンターテイメント・ビジネスを展開している。パッケージ・メディアの流通を通じた越僑社会への影響力は、上記の子供たちの例をみても明らかである。
 筆者はこれまで、フィールドワークによって、海外在住ベトナム人が興したメディア・エンターテイメントについての資料を収集してきた(2)。そこで、メディア・コミュニケーションの観点から「海外在住ベトナム人」のエンターテイメントをめぐる現象について分析していきたい。

2. 越僑のメディア・エンターテイメント産業とその変容
 アメリカを中心とした越僑メディア・エンターテイメント産業は、独自のネットワークでそのサービスを展開してきた。「リトルサイゴン」には、CDやDVD、ビデオなどの原盤製作からコンサート・プロモート、出版、演奏会場まで多数のポピュラー音楽制作に関連する、メディア・エンターテイメント産業が見られる。また、これらほぼ全てを行っているブロックバスター型の企業もある。
 例えば、1978年頃からカセット等のパッケージ・メディアを扱っていた制作会社Diem Xua Productionとともに、イベント事業を開始した企業を前身として、80年代中期から総合制作会社にまで成長してきたThuy Ngaは、その代表的な存在である。現在、カリフォルニアを中心にパリにも拠点を持ち、世界各地に代理店を持つ。音楽パッケージ・メディア制作や出版のほか、コンサートをプロモートし、その模様をビデオやカラオケ、DVDの映像作品として編集し、販売を行っている。「Paris By Night」と名付けられた、この人気のビデオシリーズには、越僑の人気歌手がこぞって出演している。
 Asia EntertainmentもThuy Ngaと人気を分け合うプロダクションで、1990年代からシリーズや企画ビデオを制作・販売している。近年は歌手のプライベート・レーベル等も設立が相次ぎ、大小さまざまなメディア・エンターテイメント産業がカリフォルニアを中心に存在している。
 こうした産業で制作されたパッケージ・メディアは、地域の各種情報メディア、つまりベトナム語の新聞や雑誌、コミュニティ・ラジオやテレビ、現在ではウェブなどを通じて、流布されていく。パッケージ・メディアを扱うコミュニティ・ショップを通じて、アメリカだけでなく、世界各地の越僑社会にもメディア・エンターテイメントが流通している。こうした地域でも、地域に密着したベトナム語のメディアを通じて、メディア・エンターテイメント情報は流布される。こうして国境を越えて、カリフォルニアで制作されたアメリカの越僑メディア・エンターテイメントが、世界各地の越僑社会に届き、受容されていくのである。この具体例は、第3章にて日本の事例で論じることにしたい。
 こうしたメディア・エンターテイメント産業の成立過程を論じた研究は少ないが、ポピュラー音楽研究と民族音楽学などの観点からいくつかの成果がある(3)。ベトナム語の情報メディアを含めると、議論が拡散するので、本節では、エンターテイメントを生産する産業について考察したい。また、エンターテイメントの範囲も多様であるが、特にポピュラー音楽に限定して考察をしていきたい。

 2-1. 越僑メディア・エンターテイメント産業とその発展
 Lullは、1975年以降にアメリカへ大量移住したベトナム難民が、カリフォルニアでコミュニティ・タウンを形成し、このコミュニティが他のコミュニティと接点を持たず、コミュニティ内で資本を流通させることで経済的に成功を収めたことに着目している(Lull、1992)。ポピュラー音楽も同様にコミュニティの内側のみで流通したという。音楽演奏はベトナム人が所有し、経営するクラブで行われる。クラブの音響システムも、コミュニティ内のベトナム人が配給するものを用いている。チケットは、ベトナム人向けの小売店のみで販売され、広告は、コミュニティ内の電柱の貼り紙や、チケットを販売する小売店のポスター広告のみである。会場に足を運ぶのも、コミュニティ内のベトナム人に限定されている。こうして小規模音楽企業や、アメリカのメインストリームとは無縁の「クラブ・カルチャー(4)」が形成されていった。つまり、コミュニティ内で閉じた文化資本を利用することで、地域で拡大生産されていったものが、越僑のポピュラー音楽産業の特性であるという分析である。
 Bramadat(Bramadat、2001)は、カナダ在住ベトナム人のコミュニティにおける文化の受容を分析する際に、こうして形成された小規模音楽産業が、低予算のビデオ制作などを通じて、フランスやオーストラリア、カナダなどのファンたちに、メディア・エンターテイメントの提供をしていたと述べている。
 ところで、1980年代中盤のカリフォルニアのベトナム人コミュニティでは、「ボートピープルの救援」や「共産政権打破」などのプロパガンダをスローガンに掲げた社会運動が展開していた。Haiはこうした社会運動の発揚の場である大集会において、巨大なショー形式のコンサートが開催されるようになったと述べている(Hai、2001)。また、Lullは社会運動の場において、音楽が政治目的に用いられていることを報告している(Lull、1992)。こうした集会では、集客によって運動資金の寄付を募るために、またイデオロギー的でエモーショナルなオーディエンスの統一のために、ポピュラー音楽が用いられていた。カリフォルニア在住のベトナム人の多くは「難民」としてベトナムを脱出したものであり、集団の求心力の一つの中心は政治的イデオロギーである。ポピュラー音楽は、政治的イデオロギーや共有する記憶のレトリックを用いて、ダンス・クラブという私的で小規模な空間から、越僑社会のなかの公的な空間にまで広がっていった。産業的にはマスプロ化してゆくのである。Haiはこうした契機で90年代を通じてビデオシリーズの商業的成功があったと述べている(Hai、2001)。世界の越僑コミュニティが社会運動のイデオロギーを共有するようになってくると、マス・メディア化されたメディア・エンターテイメントも共有されていくのである。
 ただし、こうしたイデオロギーの動員も、難民を中心とするベトナム人コミュニティの内側で展開したものである。コミュニティ、クラブ・シーン、社会運動の観点から、資本の流通にしろ、文化資本の利用にしろ、イデオロギーの動員にしろ、コミュニティーの内側のみで展開されたのだが、これが地域を越えて世界各地の越僑社会にエンターテイメント産業が広がっていった要因であった。

 2-2. 越僑メディア・エンターテイメント産業で流通する音楽
 次に越僑のメディア・エンターテイメント産業で流通する音楽について概観しておきたい。
 一般的にベトナム語では「ポピュラー音楽」という言葉を用いない(5)。「ポピュラー音楽」という言葉に対応するものは「Tan Nhac(新しい音楽)」や「Nhac Tre(若者の音楽)」という言葉である。しかし、Thuy Ngaなどのパッケージ・メディアでは、こうした音楽以外にも、さまざまな「ジャンル」の音楽を扱っている。
 例えば、「Nhac Dan Toc(民族の音楽)」は、一般的な「伝統音楽」を指し示している。しかし、現代風に編曲された民謡などは「Nhac Tre」を得意とする歌手もしばしば歌っている。メディアでの露出度や用いられ方からみても「ポピュラー」と「伝統」を区切ることはできない。「Nhac Dan Toc(民族の音楽)」と関連するジャンルとして、「Cai Luong(改良)」は、南部の伝統的なアマチュア歌劇を基礎にした音楽で、伝統的な音楽を近代的に改良・発展させたものである。また、「Nhac Que Huong(故郷の音楽)」は、「Cai Luong」の音楽部分だけを取り出して、伝統的なメロディーを用いた歌謡として発展させたもので、「故郷への想い」が一貫したテーマの音楽である。
 その他、様々であるが、ジャンル名に着目すると、ベトナムの「ポピュラー音楽」の多様性が理解できるが、ここで着目したいのは、こうしたジャンル名に、ポピュラー音楽実践の主体や方法論が反映されている点である。聞くものの感じ方とは別に、ベトナムの音楽は、民族の言葉としての特性やエスニシティが、明確に反映されているのである(日吉、2001)。
 一方、こうした主体性や方法論の反映とは異なるものが二つある。「Nhac Vang(黄色の音楽)」(鳩夫、1991)と「Nhac Que Huong(故郷の音楽)」だ。そして、この二種類の音楽ジャンルは、越僑の「ポピュラー音楽」を分析する上では、一つのキーとなるジャンルである。
 既に述べたように、越僑のポピュラー音楽の産業化には、その背景にイデオロギー的な政治意識の広まりがあった。政治集会では、しばしば「1975年以前に作曲された音楽」が演奏され、音楽のテーマも「共通の記憶としての南ベトナムの思い出」や「レジスタンス」「闘争」といったものが用いられていた。こうした音楽は、現在のベトナムではほとんど聞かれることがなく、越僑の間でのみ再生産されているものである。こうした音楽を「Nhac Vang」という。
 一方、ベトナムでもポピュラー音楽の中心となっている、故郷を懐かしむ歌である「Nhac Que Huong」は、同時に難民として故郷を離れ、海外で生活する越僑の複雑な望郷の念が表象されている音楽でもある。聞くものによって異なる故郷は、国境を越えて受け入れられているジャンルを形成している。
 Haiは越僑の間で受け入れられてきた「Tan Nhac(新しい音楽)」について、そのテーマやポピュラー音楽実践の主体の活動から、いくつかの歴史区分を行っている(Hai、2001)。
 1975年から1977年は「サイゴンへのノスタルジア」が表現された時代である。失った思い出を呼び起こすようなテーマがしばしば用いられ 「さよならサイゴン」「名前はなくとも覚えている」のような楽曲が作曲されている。
 1978年から1981年は「新しいレジスタンス」が表現された時代である。故郷を取り戻ための闘争やベトナムにおける監獄生活への言及などをテーマに作曲された。
 1982年から1985年は、「戦前の音楽の復活」がみられた時代である。サイゴン当時の黄金時代の歌手による楽曲のリバイバルが行われた。
 1985年から「Hung Ca (興歌)」ムーブメントという作家運動が起こった。闘争やレジスタンスに加え、愛やロマンスなどを含めた音楽テーマの多様化につながる作家の啓蒙運動である。同時期に、ユーロダンスや香港・台湾系のポピュラー音楽のカバーが多くみられるようになった。「ニューウェイブ」と称されるこうした音楽は、ベトナムのポピュラー音楽の多様化や産業の巨大化とともに、複製時代のメディア音楽を作り上げていく。
 Lullはこの「ニューウェイブ」と称される音楽について詳細な分析を行っている。ベトナム人が「ニューウェイブ」と呼ぶ音楽(6)は、極めて高いメインストリーム文化からの影響が強く、一種のトランスカルチャーであることを論じている。カリフォルニアで活動するベトナム人の人気バンドであるFamily Loveなどへのインタビューを通じて、「アクションを求め、トップ40をよく聞いているが、飽きている、なにか新しいものを欲していて、妙で不思議なものを欲している」客層が、こうした「ニューウェイブ」を支える聞き手であることを示した(Lull、1992)。
 このように「ニューウェイブ」に限定しても、音楽事体は極めて高いメインストリームの影響を受けているにも関わらず、CDやカセットの小売店のマーケティングがメインストリームの市場とは接点を持たず、クラブで演奏される曲目に依っていることに、Lullは越僑の「ポピュラー音楽」の独自性と孤立を見る(Lull、1992)。
 こうしたジャンルの多様性や時代変遷、メインストリームとの関連などから越僑のポピュラー音楽を分析すると次のようなことが言えるであろう。メッセージや形式における独自性やコミュニティ的な特性は、越僑独自の文化的アイデンティティの強化とメインストリーム文化への適応のはざまでマージナルなテクストとして表出されているのである。

 2-3. 越僑メディア・エンターテイメント産業で活動する歌手とその活動
 次に、越僑のメディア・エンターテイメント産業で活動を行っている歌手について見てみたい。Thuy NgaやAsia Entertaimentで近年、活躍している歌手は、その経歴によっていくつかの分類することができる。
 第2項で「戦前の音楽の復活」について述べたが、この時期の象徴的な男性歌手Elvis Phuongは、1960年代前半からサイゴンでロックバンドとともに活躍してきた歌手だ。Thanh Thuyenは幼少の頃から活動歴の長い南ベトナムの女性のスターであったが、79年にアメリカに渡った。第一の分類はこのように「1975年以前からのスター」である。
 ShaylaはThanh Thuyenの娘で、移民後に生まれた二世歌手である。Nguyen Cao Ky DuyenはThuy Ngaプロダクションのビデオシリーズのレギュラー司会者として活躍しているが、南ベトナムの政治家Nguyen Cao Kyの娘である。第二の分類は「75年以前からの重要人物の思い出を表象する二世」である。
 The Sonはベトナムで活動していた男性歌手だが、1990年代に移民している。Truc Linh, Tuc Lamは1990年中盤にベトナムの歌謡コンテストで優勝し、ホーチミン市で活躍していたが、近年移民している。後に日本に来日した歌手について触れるときに述べるが、越僑ポピュラー音楽産業で極めて高い人気を持つ歌手であるNhu QuynhやAi Vanは、90年代までベトナムで活動していた歌手であるが、近年になって移民している。第三の分類は、「ベトナムからの歌手の流出」であり、こうした流出は同時に越僑のメディア・エンターテイメント産業を支えているのである。
 Don Hoはアメリカ育ちの越僑二世で、アート専攻の学生から、派手な無国籍風パファーマンスで人気を集める男性歌手となった。Phi Phiも同様にアメリカで育った越僑二世で、録音した半数の作品は英語で歌っている。第2項で「ニューウェイブ」について触れたが、こうした音楽は第四の分類である「アメリカで生まれ育った二世」によって行われていることが多い。
 Nguyen Ngoc NganはNguyen Cao Ky DuyenとともにThuy Ngaプロダクションのビデオシリーズのレギュラー司会者として活躍している。南ベトナムの軍隊で英語教師をしていたが、1978年にボートピープルとしてベトナムを脱出した。マレーシアの難民キャンプで書き始めた小説がきっかけで、小説家としてもエンターテイナーとしても活躍している。Thanh Haは1991年にフィリピンの難民キャンプでモデル・コンテストに優勝して以来、歌手として活動してきた女性である。第五の分類は「ボートピープルとしての経験を持つもの」である。
 Phi Nhungは南ベトナム最大の基地の町プレイクで生まれた。アメリカ人の父親とベトナム人の母親を持つ、いわゆるアメラジアンである。Lam Nhat Tienは中国系ベトナム人歌手で、ベトナム語のほか、中国語や英語で歌っている男性歌手である。第六の分類はこのように「役割モデルとしてのエスニシティ」である。
 このような六分類から、越僑のポピュラー音楽産業でエンターテイメント活動を行っている歌手には、世代や入国のモード、エスニシティなどで多様性が見られていることが分かる。
 Pham Duyは、抗仏戦争で多数の反戦歌を作曲したが、後の抗米戦争に反対して移民し、第2項で述べたような「新しいレジスタンス」を担う代表的な作歌として広く受け入れられている。いわば芸術による社会運動の闘志であるが、越僑社会の精神的なコミュニティー・リーダーである。Lynda Trang Daiは「ニューウェイブ」を得意とする女性歌手だが、英語名とベトナム語名をまぜるハイブリッドな名前を持ち合わせている。多くの越僑歌手たちはカリフォルニアに在住しているが、Thuy Ngaのビデオシリーズには、アメリカ以外の国からの出演者も登場している。Bao Hanはオーストリアを中心に、越僑が数多く在住する中東欧で地域のコミュニティを活動の場としていたアマチュア女性歌手であるが、現在は越僑社会全体のスターとして活動している。
 歌手に代表される越僑のメディア・エンターテイメント産業で活躍するエンターテイナーは、多様な背景を持つ海外在住ベトナム人を象徴する役割モデルを持ち合わせているといえよう。
 こうした多様性の演出はメディア戦略の一つでもあろう。Lullは、カリフォルニアのクラブに通う観客を分析し、流行に敏感な場所であるとともに、家族とともに友人とともに訪れる家庭的な場所でもあると述べている(Lull、1992)。筆者が97年に巨大なショー形式のコンサートに足を運んだときも、またコミュニティのクラブに足を運んだ時も、同様の傾向がみられた。ポピュラー音楽のイベントには老若男女さまざまな「受け手」が集まっていて、家族連れも多い。エンターテイナーの多様性は、明らかにこうしたポピュラー音楽の「受け手」層と関連している。
 越僑社会に限定して向けられるポピュラー音楽産業は、極めて限定された市場によって成り立っている。コミュニティの世代の変化とともに、第二世代の成員がメインストリームへの同化を志向すれば、必然的に産業は衰退に向うであろう。こうした中でメディア・イメージに、第二世代のベトナム系アメリカ人の表現を積極的に用いている。「Nhu Quynh」のような歌手は、移民してから一夜にしてアメリカン・ドリームを手にした歌手のような演出がなされているが、コミュニティに対しても、またポピュラー音楽産業を担う歌手たちに対しても、社会的成功をイメージさせるメッセージが届けられているのであろう。越僑社会といっても、その内には世代や入国モードなどの多様性がみられる。こうした人々の越僑としての帰属意識を補強し、コミュニティを維持することは、メディア・エンターテイメント産業にとっては、同時に市場の維持を意味するのである。
 
 2-4. パッケージ・メディアとそのイメージ
 次に、越僑メディア・エンターテイメント産業で販売されるパッケージ・メディアの主力である音楽ビデオシリーズの内容についてみていきたい。
 Lullは、こうしたビデオが普及しはじめた90年代前半当時の映像イメージについて、典型的なアメリカの「GOOD LIFE」のクリシェや、ボートピープルの悲劇を思い起こす「ヨット」や「海」のイメージの投影があると述べている(Lull、1992)。
 近年の傾向を知るために、1997年にThuy Ngaが設立15周年を記念して発売したビデオを例にとって、用いられているイメージについて紹介しておきたい。15周年記念にあたるこの作品は、Thuy Ngaの過去制作経験の集大成にあたるものであるといえよう。
 第一に、エジプトやアフリカのイメージをモチーフを用いたビジュアル化が見られているが、「異文化」イメージの借用は、近年の作品でしばしば見られているものである。第二に、中国文化の色濃いベトナムの古代文化のビジュアル化が見られているが、「文学・芸術の実践」を通じた企業の文化活動ともいえる側面がイメージとして現れている。第三に、思い出の故郷の象徴を用いたビジュアル化が見られているが、「文化的アイコン」を用いたステージの演出での典型的なイメージである。第四に、越僑向け伝統音楽のクラブの子供たちが出演するなど、「コミュニティでの伝統の継承」を伝えるイメージ化が見られている。第五に、工事現場の労働者のビジュアル化や、プエルトリコ移民が望郷と移住の葛藤を歌ったウエスト・サイド・ストーリーの「America」などが演じられたが、「外国での生活と移民の苦悩」がイメージに用いられている。第六に、多数のダンサーがファッション・ショー的に登場するパフォーマンスが見られているが、「新しいアートの表現」の場としてのイメージが用いられている。第七に、ロマンスをテーマにしたステージでは、大道具とライトアップで見せるコンサート・ビデオの典型的な「豪華さ」をイメージにしている。第八に、75年以前からの実力派シンガーのフューチャーの仕方は実にシンプルであり、ここには「飾りなき望郷の念」がイメージ化されていると言えるだろう。
 近年のビデオシリーズを分析すると、政治的イデオロギーよりも、エンターテイメントとして、文化的アイデンティティに訴えるイメージが中心になっていることが分かる。越僑の生活文化の現在と変容を表象し、民族の文化の象徴を積極的に多用しているのである。
 特に2000年以降のビデオ・シリーズでは、ベトナムでロケを行い、大道具ではないベトナムのイメージを利用しているものもある。出演者もベトナム人だけに限定されているわけではない。日系人アーティストとのコラボレーション作品などもみられる。コンサート・ビデオの撮影は、カリフォルニアだけで行われているわけではなく、越僑の多いコミュニティであれば、アメリカ国内ほか、フランス、カナダ、オーストラリアなどでも撮影されている。プロモーション・ビデオでも各都市の風景などが用いられている。
 このように越僑社会はコミュニティ形成期からは時代を経て、ベトナムでは政治的・文化的事情も変化してきている。マスプロ化した消費文化の形成のなかでメディアのなかのメッセージも変容している。

 2-5. まとめ 〜アメリカにおける越僑ポピュラー音楽産業の変化〜
 現在はあまり目につかなくなったが、1990年代中盤には、越僑のポピュラー音楽産業のパッケージ・メディアは、ベトナムでもしばしば目にすることがあった。一方、さほど数は多くないが、越僑の歌手が帰国してコンサートを開く事例もみられている。「Cai Luong」の実力派である越僑女性歌手のHuong LanのCDは、本国ベトナムでは正規版のCDが多数発売されていて、主な活動拠点もベトナムに移っている。Haiは、越僑の「Tan Nhac」の歴史分類に、1997年からベトナムと越僑の音楽との融合が見られたと記している(Hai、2001)。越僑のポピュラー音楽産業で生産されるパッケージ・メディアの中に、近年ベトナムで作曲されたヒット曲が含まれるようになったのもこの頃である。
 皮肉なことに、1997年にサンノゼで開かれた巨大コンサートショーには、反共産系の団体が会場の外でデモを行っていた。こうしたショーにあるベトナム志向を批判しているのである。文化的なオーセンティシティは、政治的な凝集力に必ずしも結びつかないのであろうか。しかし、そのデモを横目に数万人のベトナム人がホールに入っていく。そのホールで繰り広げられるのは、むろんプログラムは多様であったが、故郷を希求する歌によるオーディエンスの熱狂的な統一であった。
 80年代前半、越僑のポピュラー音楽は、イデオロギーによってコミュニティの求心力を強める機能を果たす、共有する記憶のレトリックであった。しかし、越僑の帰国の実現などとともに、今日の越僑のポピュラー音楽はもう一つの共有する記憶のレトリックによって表出されている。それはエスニシティの記憶である。 
 
3. 国境を越える越僑のメディア・エンターテイメント
 第2章では、主にアメリカにおける越僑によるポピュラー音楽産業やそこで流通する音楽、エンターテイナー、パッケージメディアのイメージなどについて分析してきた。本章はこれらがどのように受容されているかを論じていく。
 第二章で述べたように、世界各地のベトナム語による情報メディアは、地域を越えた情報交換のなかで越僑のネットワークを強めている。エンターテイメント情報は、こうしたメディアの共通コンテンツでもあり、ベトナム人に人気の歌手の新譜情報などは、世界各地のベトナム語メディアを通じて、世界の越僑たちに伝わっている。また、こうした歌手が遠方から公演にくるときなどは、こうしたメディアの拠点が、興行の拠点になることもある。
 越僑によるポピュラー音楽産業が、地域を越えて展開するといっても、エンターテイメントの実践や受容は、ヒトもハコも、むろん情報も、地域性がなければ成立しないのである。しかし、どの地域でもアメリカで発行されているような音楽の専門雑誌があるわけではない。ベトナム人の少ない地域では、情報の地域性の面からすると、アメリカで制作された越僑のエンターテイメントの「受け手」になっている。
 本論では、世界各地のベトナム語メディアを取り上げるわけにはいかないので、日本における越僑ポピュラー音楽の受容を事例として取り上げ、越僑社会におけるメディア・エンターテイメントの受容について考察したい。
 現在の「在日ベトナム人社会」は、1975年以降にベトナムを出て定住した人たちと、その家族や、呼び寄せ家族などを中心に構成されているのが特徴である。約1万5000人程度が日本で生活をしているが、アメリカの巨大なコミュニティと比較すると決して大きなコミュニティーとは言えず、またコミュニティ・タウンと呼べるような地区も現実的には見られていない。
 こうしたコミュニティの小ささから、商業的に成立しているメディア・エンターテイメントに関する産業はないといってよい。第2章の第1節で述べたように、商業的にはコミュニティの内側のみで小売店を介してパッケージ・メディアが流通しているのみである。
 さて、コミュニティ向けに生活雑貨販売などを行っているコミュニティ・ショップが、日本におけるエンターテイメント受容の窓口となることになる。個人的に自身のルートを用いて輸入販売などを行っているものもなくはないが、組織として企業活動を行い、店鋪を持ち合わせる小売店の代表が「メコンセンター」である。
 「メコンセンター」は、1985年に東京品川区にあるオーナーの自宅で、注文販売による無店鋪ショップとしてオープンした雑貨店である。1994年に東京大井町の商店街にある雑居ビルに移転し店鋪販売を始めた。雑貨の中心は数千枚の在庫のあるベトナム語ポピュラー音楽のCDと、百を越す各種ビデオシリーズなどのパッケージ・メディアである。また、DVDやレザーディスクのカラオケなど、そのほとんどは、アメリカの越僑ポピュラー音楽産業が制作したものである(7)
 「メコンセンター」は1985年に商品カタログの広報紙「メコン通信」の制作を始めている。当時は店鋪がなかったため、注文販売のためのカタログが必要であった。季刊で発行されていたこのカタログ雑誌に、次第に生活情報やニュースが掲載されるようになった。店鋪を持ち、雑誌に広告がつくようになるについて、「メコン通信」は各種ニュースから娯楽情報までと幅広い紙面構成を持つ総合紙雑誌になっていった。現在、「月刊メコン通信」と名称を変え発行を続けている。ベトナム語によって書かれたメディアのなかではもっとも発行部数が多く、また、もっとも多くエンターテイメント情報や音楽情報に紙面を割いている雑誌である。
 「月刊メコン通信」は、エンターテイメント情報を「芸能記事」や「メコンセンター」で販売している在庫「CD/DVDリスト」の形で記事化している。つまり、「メコンセンター」提供している各種サービスをメディア上で記事化することで、エンターテイメントに関わる情報を提供している。このように、コミュニティ・ショップとメディアは、互いに補完しあいつつ、在日ベトナム人社会におけるエンターテイメントの受容の窓口になっているのである。
 「メコンセンター」がこうしたコミュニティ・ショップのなかでも特に注目すべきなのは、越僑エンターテイメント産業の正式な代理店にもなっている点である。Thuy NgaやAsia Entertainmentなどの正式な輸入代理店として契約販売を行っている。Thuy Ngaが発行する音楽専門雑誌「Van Nghe」には同誌の代理店が掲載されているが、イギリス、ドイツ、ノルウェイ、オーストラリア、カナダ、日本があげられている。そのうち日本の代理店がこの「メコンセンター」だ。「メコンセンター」は日本という地域にある在日ベトナム人向けコミュニティ・ショップであるが、同時に、地域を越えて展開する越僑によるメディア・エンターテイメント産業の一基盤となっているのである。
 ここでは、ベトナム語メディアやコミュニティ・ショップがエンターテイメント受容の窓口なる要因を示しておこう。 
 第一に、「メコンセンター」はパッケージ・メディアを扱う雑貨店なので、エンターテイメント情報が入りやすいことがあげられる。第二に、越僑産業を直接に介した輸入販売をしているので、越僑ネットワークへのアクセスが容易であることがあげられる。こうしたコミュニティ・ショップとしての性格が、在日ベトナム人社会にエンターテイメント情報を広く知らせるメディア制作を可能にしており、受容の窓口となる要因になっている。
 第三に、「月刊メコン」は、在日ベトナム人のための生活情報や娯楽情報、ニュース提供が紙面を構成している。こうした紙面構成の特徴から、エンターテイメント情報や芸能情報を掲載しやすい。編集方針として「月刊メコン」は基本的に政治的言論を行わないことになっている。こうしたことから、イデオロギー色が薄く、こうじて読者層も幅広くなる。 
 第四に、「月刊メコン」は、1975年以前に日本に留学していた元留学生が編集・発行を行っているが、発行人には海外越僑社会において広く人脈・交流がある。留学していた当時の仲間が各地でメディア経営しているからである。
 要因のなかでも第四の要因は、海外越僑社会とのネットワーク形成という点で重要な点である。「メコンセンター」のオーナーで、「月刊メコン」の編集・発行を行っているDo Thong Minh氏は、筆者のインタビューに次のように答えている。「在日ベトナム人社会に情報提供するのは主な雑誌の役割だが、海外在住越僑に、在日ベトナム人社会のことを知らせることも重要だ。越僑にとって同胞の動静は極めて重要な情報である。日本にはベトナム人が少ないので、結果、越僑社会世界で活躍する人物も少ない。そこで、越僑社会にむけて日本をアピールしておくことは、なにかあったときに、忘れられないためにも重要なことだ」
 こうした発言から、在日ベトナム人コミュニティと世界各地の越僑社会との関係を端的に読み説くことができる。在日ベトナム人コミュニティは日本の一地域のコミュニティであると同時に、越僑社会全体のなかの一地域のコミュニティなのである。こうした地域性は、エンターテイメント産業の受容という点でも同様である。越僑エンターテイメント産業の「受け手」ではあるが、こうした地域性はエンターテイメントの受容の基盤になっているのである。

4. 在日ベトナム人社会のメディア・エンターテイメントの受容
〜ポピュラー音楽イベントとその実践過程を中心に〜


 日本において越僑の手によるエンターテイメントがどのように受容されているのかを明らかにする上で、統計的な資料を利用することは現在の段階ではできない。しかし、最も端的に受容の現状を知ることができるのは、日本におけるコンサート・イベントであろう。
 アメリカの越僑社会においても、大規模なコンサート・イベントの開催は、コミュニティの社会運動のなかで実現し、産業のマスプロ化にもつながった。日本におけるコンサート・イベントも、コミュニティの動きやエンターテイメントの受容の仕方の変化を明らかにするであろう。
 「メコンセンター」は、1998年12月と2000年6月に、越僑歌手のなかでも極めて知名度の高いNhu Quynh(1998年)やKhanh Ly(2000年)などの歌手をアメリカから招聘し、東京品川でコンサート・イベントを開催した。両イベントの企画は、「メコンセンター」のオーナーで、「月刊メコン」をほぼ一人で編集・発行するMinh氏が行った。このイベントでは越僑のプロフェッショナルなエンターテイナーだけではなく、在日ベトナム人のアマチュアのエンターテイナーが参加し、演奏(1998/2000年)やファッション・ショー(2000年)などを行った。「メコンセンター」の広報紙としての役割を持つ「月刊メコン」の紙面上では、それぞれ一年越しの招聘活動や企画内容が逐一記事化され、メディア・イベントとしての様相を見せた。イベントに参加する在日ベトナム人は越僑の有名歌手と同様に紙面に大きく登場した。イベント当日は、地方から在日ベトナム人が観客として集まるなど、チケットはほぼ完売で、商業的に成功に終わっている。筆者は、この両イベントの企画から実施にいたる過程にわたり、イベントの主催者や来日した歌手、出演者などにインタビューを行い聞き取りするとともに、ボランティア・スタッフとして実際にイベント前後の練習や手伝い、当日のイベントに参加するなどして資料を収集した。こうして、参与観察によるフィールドワークによって調査を行った。

 4-1. イベントの企画と招聘活動
 1998年12月にコンサート・イベントを行うため、「メコンセンター」は1997年終盤頃から企画を行っていた。コンサート・イベントの企画の一つの中心は、アメリカで活躍する人気の若手女性歌手Nhu Quynhの招聘であった。Nhu QuynhはThuy Ngaに所属して多数の作品を制作しており、世界各地の越僑社会のなかで最も人気のある歌手の一人である。アメリカからトップクラスの越僑歌手を招聘することは、企画者の夢の一つでもあったという。こうして一年越しの企画が行われた。
 企画は Minh氏がほぼ一人で行ったものである。これまで小さな規模のコンサートを企画したことはあったが、こうした歌手を招聘するようなイベント企画は経験がなかった。Minh氏は98年の始めに一ヶ月にわたりアメリカ・カリフォルニアに出向き、招聘する歌手たちと打ち合わせを行った。
 ところで、こうした招聘活動が可能であるのは、すでに「月刊メコン通信」がエンターテイメント受容の窓口となる要因で示したように、越僑ネットワークとアクセスできる、あるいはしやすい、というメディア制作者の立場があったからである。
 2000年夏にコンサート・イベント行うための企画でも、同様に実力派の女性歌手Khanh Lyの招聘を計画した。このときも98年同様にMinh氏はアメリカに渡り、歌手たちと直接交渉を行って招聘活動を行った。
  Minh氏は、筆者のインタビューに次のように語っている。「月刊メコンの制作などで、定期的に越僑社会にアピールしている。アメリカの印刷所で発行した自身が著した書籍などがこれまで多数ある。辞書なども編纂してきた。定期的にアメリカなどに行き、講演なども行っている。これまでのこうした活動があってこそ、日本にもトップクラスの歌手を呼ぶことができる。招聘活動もアメリカに渡って直接行っているし、本人と直接交渉して、電話もすぐに通じる」
 メディア制作者として越僑社会にアピールする Minh氏は、情報発信のエージェントであり、また、コミュニティ・リーダーである。こうしたベトナム語メディアの制作者という特性が、こうした企画を可能にしているのである。
 
 4-2. メディア・イベントとしてのコンサート・イベント
 コンサート・イベントの企画の内容は、両イベントの半年前から「メコン通信」で逐一報告されていた。会場やチケット、プログラムの変更などだけではない。歌手の招聘のためにDo Thong Minh氏はアメリカに渡り、交渉しているが、こうした招聘活動の様子も逐一記事になっている。
 「メコン通信」は「メコンセンター」の広報紙としての役割も持ち合わせている。こうした広報活動を通じて「メコンセンター」の企業努力が記事化されるわけであるが、それは同時にコンサートがメディアと連動するイベントであることを大きく示すことでもあった。
 1998年から「メコン通信」の「芸能人ニュース」は、次第に情報量を増やし、来日する予定の歌手が毎号大きく紙面を割いて登場していた。こうした限定的な情報を得ることができるのは、「メコン通信」以外にはほとんどないないという情報的な特性や、広報紙としての特性もあるが、同時に企画段階を記事化することで、メディア・イベント性を演出しているのである。
 こうした傾向は2000年夏のコンサート・イベントの前までにさらに強まり、コンサート・イベントの成功の記憶を「メコン通信」の記事の中で用いるようになっている。
 1998年のコンサート・イベントが終わった直後に発行された1999年2月号の「メコン通信」は、コンサートの模様や、写真、インアビュー記事が掲載されている。来日した越僑歌手だけでなく、在日ベトナム人の歌手やバンドのメンバー全員の写真やインタビューも掲載されている。2000年夏のコンサートの企画が行われ始めた開催半年前の1999年終盤から、「メコン通信」に表紙には、イベントの案内とともに、出演予定の越僑歌手と在日ベトナム人のアマチュア歌手が表紙を飾っている。紙面においても、越僑歌手と在日ベトナム人の歌手のインタビュー記事がほぼ同じ量で紹介されている。
 2000年6月号は、コンサート直前に読者に届き、パンフレットの様相を見せている。3色刷りであった表紙は、この号からカラー化された。ほぼ全員の出演者の顔写真が表紙に掲載され、紙面にはアオザイ・ファッション・ショーのリハーサルの模様が掲載されている。2000年のコンサート終了後も、1998年のコンサート同様にイベントの成功の記憶は数号に渡って記事化されている。
 在日ベトナム人のアマチュア歌手が表紙や紙面を飾ることは、一種のメディアの賞揚機能である。その賞揚の一つは、在日ベトナム人コミュニティにおける非日常的経験としてのメディア・アクセスにある。彼らの多くは、熟練労働で毎日を厳しい単純労働で過ごすものがほとんどであった。メディアと連動したイベントが、出演者の激励となったことは間違いないであろう。
 しかし、もう一つの機能がここにはある。ポピュラー音楽実践を通じて、自身の所属するコミュニティを、在日ベトナム人社会という日本の内にある地域から、越僑社会という世界的に広がるコミュニティへと拡大させたことである。メディア・イベントは、コミュニティの成功の記憶を印すだけでなく、エスニシティの記憶を作り出していくのである。

 4-3. 会場、チケット、企画内容
 コンサートの会場となったのは、品川区立総合区民会館「きゅりあん」である。1998年のイベントは「きゅりあん」の小ホールで、2000年のイベントでは大ホールでコンサートが行われた。「きゅりあん」の小ホールは定員400名、大ホールは定員1100名のイベントホールである。会場の選定は二つの理由による。一つは「メコンセンター」が品川区にあることから、区民ホールのレンタル料が割引になることである。二つには、品川区には「難民救援センター」があり、在日ベトナム人に馴染んだ場所だからである。漢字や地図の読めない同胞への配慮のため、慣れ親しんだ場所を選定したという。
 チケットは、1998年のコンサートで「2000円/4000円/6000円/8000円/10000円」で販売された。最前列の座席は1万円という値段がついているにも関わらず、完売であった。チケットの購入はメコンセンターに電話で予約するか、直接訪問して購入する。神奈川県厚木市にあるベトナム料理店では代理店販売もしていた。実際には、事前にはほとんどチケットは売れず、多くのチケットは当日の会場窓口で販売された。立ち見のチケットも1000円で当日販売され、昼の部は特に定員を越えた観客がチケットを購入していた。2000年のコンサートは「4000円/6000円/8000円」で販売された。1998年同様に、ほとんどのチケットはイベント当日の窓口販売によるものであった。2000年のチケット販売数は正確には不明であるが、完売ではなく9割方の来客であった。チケットの販売からは、商業的に両イベントは成功し、「メコン通信」の広告販売効果が目に見えたといえる。関西からのツアーを組んで見に来たものもいるなど、その範囲は関東圏に限られたものだけではない。
 企画内容は、1998年のイベントはポピュラー音楽のコンサートである。越僑歌手と在日ベトナム人の歌手が交互に登場し、一人あたり2曲から3曲づつのオムニバス形式で進められた。越僑歌手は1ステージで2回登場している。演奏は在日ベトナム人のバンド「Ban Nhac New Sky」が連続して演奏を担当した。チケット番号を用いたビンゴとプレゼントの贈呈があった以外は、音楽演奏である。2000年のイベントは、ポピュラー音楽のコンサートに加え、アオザイと歌のショーやファッション・ショーやコントが行われてバラエティ・ショーの形式であった。

 4-4. 越僑の歌手の出演者
 招聘された越僑の歌手たちについて見てみたい。 
 1998年のコンサートのため来日したのは、「Nhu Quynh/Ai Van/Viet Dung/Tuong Nuyen」の4人の歌手と、キーボード奏者で編曲家の「Minh Tan」である。
 Nhu Quynhは現在の越僑ポピュラー音楽産業で最も高い成功を収めた歌手の一人で、知名度も抜群に高い大人気の若手女性歌手である。「Nhac Que Huong(故郷の音楽)」を得意とし、伝統的でソフトなメロディーのバラッドを得意としている。ベトナムの民族衣装であるアオザイをまとう彼女の姿は、明らかに、越僑社会で受け入れられている文化的アイコンである。
 Ai Vanも同様に高い成功を収めた女性歌手であり、実力派の伝統音楽家としての評価がなされている。Tuong Nguyenは、近年に移民してアメリカに渡った歌手だ。
 この3者は共通して90年代になって移民した歌手である。第2節の第3項で分類した「ベトナムからの歌手の流出」にあたる歌手である。Ai Vanは、ベトナムの伝統芸能の領域で国際的に活躍していた実力派の歌手であった。ベルリンの壁崩壊時に、偶然に東ドイツで公演をしており、その直後に亡命している。こうした背景は、越僑の間で伝説的に取り上げられていくことになる。
 1998年のコンサートの招聘メンバーは、Viet Dungがリーダーとしてグループで来日していた。Viet Dungは1975年に難民として渡米し、現在は、リトルサイゴン・ラジオのディレクターでもある。このViet Dungは、第二節の第二項で紹介したHaiの越僑の「Tan Nhac(新しい音楽)」の歴史分類における、第一の分類「サイゴンへのノスタルジア」を歌った代表的な歌手である(Hai、2001)。失われた故郷をテーマにディアスポラ色の強い作品を発表してきている。いわば越僑コミュニティを貫く難民性を象徴している文化的アイコンである。
 1998年のイベントではコンサートの構成から選曲までを、主にViet Dungが手掛けている。こうしたことから選曲も第二節の第二項にあるような「戦前の音楽の復活」を中心に行われている。Nhu QuynhやAi Vanの近年のヒット曲に加えて、1975年以前のヒット曲も数多く演奏された。
 一方、2000年のコンサートは、リーダーシップを発揮するものは特になく、来日した人数も多く、来日するまでは別行動を取っていた。来日したのは「Khanh Ly/Ai Van/Nhin Cat Loan Chau/Anh Dung/Duc Phuong/Manh Dinh/Ngoc Trong/Quang Minh-Hong Dao/ Van Son」の10名である。
 Khanh Lyは、1960年代後半から70年代初頭のベトナムでは国民的歌手として活躍し、ベトナム反戦運動に盛り上がる日本でも「Diem Xua(懐かしい昔)」をヒットさせた国際的に有名な歌手である。1975年に難民としてアメリカに渡り、以来、海外在住ベトナム人の心の支えとして歌声を響かせ続けている彼女は、明らかにこのコンサートの主役であった。
 Nhin Cat Loan Chauは若手の女性歌手でアメリカで育った越僑二世であり、「ニューウェイブ」のジャンルを得意としている。Manh Dinhも越僑二世で「Nhac Que Huong(故郷の音楽)」を得意とする歌手だ。
 Anh Dungは、リトルサイゴンのラジオ局のDJであったが、近年は歌手や俳優として活躍している若手男性歌手だ。Duc Phuongとともに豊かな伸びのあるトーンで「Ca Khuc(歌曲)」を得意としている。Ngoc Trongは演奏家、Quang Minh-Hong Dao、Van Sonはコメディアンである。
 このように2000年のイベントで来日した越僑の歌手などはバラエティに富み、1998年のイベントよりも娯楽志向がより強い。「メコンセンター」の企画も、アメリカの越僑ポピュラー産業同様、多様性を演出する傾向が強くなっているといえるだろう。2000年のイベントで演奏された楽曲の中心は、現在のベトナムで流行中の曲であった。1975年以前のヒット曲が多く演奏された1998年のイベントと比較すると、これは明らかに越僑社会の担い手の世代の変化、ひいては反共意識やベトナム文化の扱いの変化が現れてきているといってよいであろう。

 4-5. 在日ベトナム人の出演と参加
 イベントには招聘された歌手だけでなく、同じステージに在日ベトナム人のアマチュアが上り歌声を聞かせた。
 1998年のイベントはオムニバス形式で6名の在日ベトナム人のアマチュア歌手が登場している。演奏も在日ベトナム人が結成したバンド「Ban Nhac New Sky(ニュースカイ・バンド)」が、来日した「Minh Tan」とともに全て担当した。
 2000年のイベントでは、4名の在日ベトナム人のアマチュア歌手が登場した。1998年とはメンバーが異なるものの「Ban Nhac New Sky」が再び演奏を担当した。さらに、司会にも1名、在日ベトナム人を登用した。ファションショーやオープニングなどは、それぞれ在日ベトナム人の責任者が企画・演出に参加し、総勢40名近くのベトナム人と日本人のモデルが出演した。
 両イベントに出演した在日ベトナム人は、ほとんど難民として日本に定住したものとその呼び寄せ家族である。アマチュアの歌手は全員が20代の若者である。日本での生活はさまざまだ。日本の高校を卒業し会社員をしているものから、難民としてタイやシンガポールで育ったために日本語のみならずベトナム語も不得意なもの(1998年/2000年)、呼び寄せで来日して長い年月が経つが在日ベトナム人社会と接点が少ないという理由でこのイベントに参加したもの(1998年/2000年)、「インドシナ難民の集い」のような集まりではしばしば歌やカラオケを歌っていたもの(1998年/2000年)、中には「メコンセンター」の協力でカリフォルニアで録音したCDを発売しているものもいる(1998年)。多くは神奈川県大和と埼玉に住んでいるが、越僑の有名歌手と共に演奏できるということで、遠方から音楽仲間が集まり、毎週長時間の練習を積んでいた。
 Ban Nhac New Skyは1998年の夏に、このイベントのために結成されたバンドである。「新しい空」という意味のバンド名は、難民として来日し日本社会に定住するベトナム人の新天地の心境を込めたものである。
 バンドの練習は、1998年のイベント半年前から、毎週日曜日に行われていた。藤沢と厚木の中間あたりの花木園と畑に囲まれた倉庫の隅のガレージが練習場所である。この倉庫の所有者は地元神奈川でリサイクル業を営む在日ベトナム人である。特にイベント前は極寒のなか1日8時間近くかけて野外で練習を行っていたが、この倉庫は地元の音楽好きベトナム人が集まる場所にもなった。コンサートはこのように音楽とは直接関わりのない在日同胞をも巻き込んで成立している。
 2000年のイベントの前は、Ban Nhac New Skyのリーダーが経営を開始した神奈川のベトナム料理店に演奏機材を持ち込んで、毎週日曜日午前中に料理店の営業前に練習が行われていた。夜になると、料理店に集まったベトナム人のために演奏を行うなどして、練習を積んだ。1998年のイベント当時、バンドのメンバーは練習が終わると必ずこの料理店に集合していた。いわば、たまり場であったこの料理店を、Ban Nhac New Skyのリーダーは、バンドの練習と発表の場にするために、自ら投資をしてオーナーにまでなり、店を改装して音楽実践の場を作り出した。残念ながら現在、この料理店は姿を消しているが、音楽はコミュニティのビジネスチャンスをも作り出していることが分かる。
 日本に定住して長い月日がたてば、生活環境や生活空間が広がりを見せる一方、同胞との距離は離れてゆく。イベントは、娯楽を提供しつつ、コミュニティーの社会関係に刺激を与えたといえる。メディアに紹介されたイメージは、それを実現化するための音楽活動を通じて、実際的なコミュニティー・スペースの創造につながっていたわけである。
 2000年のイベントでファションショーを担当した在日ベトナム人の演出家は、東京でベトナム民族衣装のアオザイを販売する専門店を経営している。自身の専門店のデザイナーでもあり、ベトナムに縫製工場を持ち、ビジネスを行っている。オープニングのショーを担当したものはベトナム料理店を経営している。大人数のショーのためにボランティア・スタッフを集め、リハーサルを重ねて、ショーを実現した。
 在日ベトナム人社会でビジネスを展開するものをイベントに加えることで、イベント作りに人的交流の側面が強化されたといえる。企画に責任をともなって参加することで、コミュニティーリーダーの創出をうながすことができる。こうしたショーは自身のビジネスの広告ともなり、その成功はイベントの商業化の可能性をも高めるのである。

 4-6. ボランティアスタッフ
 イベントの当日は、ボランティア・スタッフとして「メコンセンター」のアルバイトの在日ベトナム人ほか、ベトナムとの文化交流を行っている団体から日本人のスタッフもボランティアとして参加している。会場の整理やチケットの販売、大道具の制作などはこうしたボランティア・スタッフが担当した。日本人スタッフは他に機材レンタルの予約や、歌手の送り迎えや観光案内、招聘業務の補助なども行っている(1998年/2000年)。
 1998年のコンサートでは、ヴィサの関係から招聘が難しかった歌手の書類申請に、政府のベトナム関係者が手伝うなど、ベトナム人のコンサートイベントであっても、日本人とのかかわり合いはコンサート成功のための重要なキーの一つである。
 「月刊メコン」は、発刊時には難民が日本で生活し適応できるための情報提供を主眼に発行されていて、現在は異文化交流メディアとしての特徴も加えている。このように日本の国際化のなかの「多文化の共生」は、メディアのテーマである。コンサート・イベントも同様に、紙面の編成の変化とともに、紙面が提示する「多文化の共生」というイメージをフォローする機能があるのである。

 4-7. まとめ 〜在日ベトナム人社会に果たすメディア・エンターテイメントの機能〜
 以上、フィールドワークから「メコンセンター」が企画したコンサート・イベントの概要の観点から、在日ベトナム人社会におけるエンターテイメント受容について考察してきた。ここからエンターテイメント受容がどのような在日ベトナム人社会にとって機能を果たしているのかをまとめておきたい。
 第一に、イベント情報を流通させたメディアの機能そのものが、ポピュラー音楽実践を成立させる基盤になっていることから、越僑社会とネットワークを形成しているメディアの機能は、エンターテイメントが在日ベトナム人社会に果たす機能と重複していることが分かる。
 第二に、エンターテイメントはコミュニティ・ブースター(Viswanath, Arora、2000)としての機能を持ち合わせている。メディア・イベントを通じて、在日ベトナム人コミュニティが世界規模に広がる越僑社会の一地域として存在することが示された。メディアで示されたイメージは、越僑エンターテイメント産業と日本のベトナム語メディアとの結びつきである。エンターテイメントの受け手は、イベントへの参加を通じて、メディアが提示したイメージを実現化し、コミュニティへの参与を強める。この意味でエスニック・コミュニティの形成をうながす機能を持ち合わせている。
 第三に、賞揚機能(白水、1998)があげられる。「メコン通信」の「芸能人ニュース」とコンサートは、メディア化された社会的現実の内なるコミュニティにおいてのみでなく、越僑社会にまで拡張したもう一つの社会的現実空間において、激励するという、賞揚機能を担ったのである。
 第四に、現実のコミュニティ・スペースの創造があげられる。越僑エンターテイメント産業との結びつきは、結果的に在日ベトナム人コミュニティの地域性を強調していることが分かる。
 第五に、文化的な多元性と共生の実現があげられる。メディアで報道・紹介されて、イメージが実現化するメディア・イベントの成立過程を見ていくと、集団を可視化し、アイデンティティを外化して、自身の所属する集団の成員に、それを示すだけの瞬発力を持ち合わせているのである。
 
5. おわりに
 以上、「海外在住ベトナム人」が興したメディア・エンターテイメント産業およびその在日ベトナム人社会における受容と機能について考察してきた。メディア・コミュニケーションの観点から「海外在住ベトナム人」のエンターテイメントをめぐる現象について分析するという目的はある程度、達成できたと思われる。
 Thuy Ngaプロダクションの成功など、越僑エンターテイメント産業が成長し、本国ベトナムをも巻き込んで全世界のベトナム人たちに安定して供給されるようになると、もともとあった「南ベトナムへの回帰」というイデオロギーをベースにしたディアスポラ的精神は、むしろ影を薄め、対抗の対象であったベトナム性をより強めると同時に、多元主義的に西洋的メインストリームを取り入れ、地域のアジア系と関わりを持つようになるなど、メディア・メッセージは文化的に変容し、再地域化されている。メディア・エンターテイメント産業が用いてきた共有する記憶のレトリックは、コミュニティの記憶からエスニシティの記憶への回帰へと変容している。
 こうしたなかで日本で行われた「メコンセンター」の企画したイベントを事例として、エンターテイメントの受容と機能について分析してきた。事例のイベントそのものを分析するなら、こうしたものは「コミュニティ・コンサート」と言われるのが一般的であろう。「受け手」と「送り手」の均質的で近しい関係のなかで成立する、小規模な、そして限定された地域を基盤にしたコンサートのことである。こうした形式のコンサートにおいて、これまでメディア・イベント性やエスニシティを問うことは、あまりなかったと思われる。しかし、メディア・エンターテイメントの受容という観点で分析すると、このコンサートはメディアを介すことで、越僑社会にあるコミュニティの多元性のなかの一つのイベントとなったことが理解できるだろう。音楽における共有する記憶のレトリックの変化は、日本の事例からも認められた。このイベントが、越僑社会の記憶の表象となるとき、メディアはそれを動員して、在日ベトナム人社会の意識を形成していくにちがいない。その意識は、複製時代のエスニシティなのかもしれない。
 さて、 冒頭のインドシナ出身の子供たちの「ベトナムの踊り」の話に戻りたい。子供たちが文化理解のために用いたコミュニケーション・ネットワークは、意識的ではないにしろ、メディア・エンターテイメントの受容を通じて形成される越僑社会のネットワークに接している。このことを知るには、子供たちが何をどこで誰から学んだのかを聞けばよい。しかし、子供たちが見た伝統的なるものが生成されている過程を知るには、エンターテイメントとメディア・コミュニケーションに関する実証的な研究が必要になってくるはずである。これは本稿の一つの意義であると考えたい。
 インドシナ出身の子供たちが、日本人に「ベトナムの踊り」を教え、発表会で発表している場面を、ビデオに収録しNhu Quynhに見せたことがある。その後、Nhu Quynhから「Lac Hong」というカリフォルニアで越僑の子弟にベトナムの伝統文化を教えている演劇団のビデオが届いた。ラオス出身の少女は気に入るだろうか。このビデオには、伝統的なるものを演じているアメリカ系ベトナム人の子供たちの姿があった。


(1) この模様は「連載/話題の教育現場を直撃ルポ5」と題して、2001年に発行された「中学教育」誌にも紹介された。
(2) 1997年に、カリフォルニア・サンノゼにある「San Jose Arena」で開催された、越僑向けコンサート・イベント「Summer Concert Arena3」を取材した。約2万人の観客が集まり、16人の越僑歌手のコンサートと漫才などが、4時間半に渡って盛大に繰り広げられた。カリフォルニアのリトルサイゴンに近いファウンテン・ヴァレイにある、越僑が所有するミュージック・クラブ「Majestic」は、代表的な越僑音楽パフォーマンスの場である。取材時は、12人の歌手が生演奏をバックに、4時間半にわたってダンス・パフォーマンスを繰り広げ、場内はディスコ空間となっていた。約300人の観客が来場していた。また、ロザンゼルス港のロングビーチにある、コンベンションセンター「Terrace Theater」で開催された、Thuy Nga Productionの人気バラエティー・ショー「Paris By Night」15周年記念コンサートのフィールドワークを行った。28人の歌手によるコンサートや演劇、アオザイ・ファッションショーなどが、リアルタイムでビデオ収録しながら、約4時間半、約6000人の観客の前で繰り広げられた。サンノゼやリトルサイゴンなどの都市を訪問するとともに、コンサート・イベントなどのフィールドワークを行いながら、越僑のエンターテイメント産業の関係者のインフォーマントを得て、資料を収集してきた。また、後述する日本のベトナム語メディア「月刊メコン通信」の活動を、参与観察によってフィールドワークを続けてきた。こうした過程で、日本に来日した越僑の歌手やディレクターなどに、直接、インタビューを行うなどして、資料を収集してきた。本稿で、文献等、特に指定のないものは、こうして不定形に収集されたフィールドノーツを元にした情報である。
(3) 在東南アジア米軍向けラジオのブロードキャスターとしての経歴を持つJames Lullは、1990年代初頭に、カリフォルニア・サンノゼでフィールドワークを行い、越僑のポピュラー音楽の商業化と、その背景についての分析を行っている(Lull 1994)。また、フランスに在住するベトナム人の著明な音楽家で、民族音楽学の研究者であるTran Quan Haiは、越僑の音楽活動を詳しくレビューしている(Hai、2001)。
(4) Lullの言うクラブ・カルチャーとは、アメリカのメインストリーム・カルチャーとは別に、サブ・カルチャーとして形成されているものを指している。一般的なクラブ・シーンという言葉で想像されるものとは異なる。Lullは、ベトナムのクラブ・カルチャーのルーツの一つに、演奏する音楽家の経歴があるという。南ベトナム当時の演奏家は、米軍ラジオを聞き、ミリタリーストアで手にいれた音楽で楽曲を学び、軍人向けのクラブやキャバレーで収入を得ていた。演奏家もポピュラー音楽の「受け手」も、こうしたクラブという音楽実践の空間に慣れ親しんでいた。カリフォルニアでは、こうした軍人向けクラブという形式は変容し、越僑向けに高級志向のイメージを演出したダンス・クラブが作られている。
(5) 音楽ジャンルとその名称に関しては、ベトナムの伝統音楽家への聞き取りなどを行ってきた。
(6) イギリスのポピュラー音楽の一つのジャンルとして用いられる「ニューウェイブ」ではなく、越僑の音楽家たちの新しい方法論としての音楽ジャンルを指している。Lullは、ベトナム系アメリカ人の「ニューウェイブ」は、アメリカのコンテンポラリー・チャートや、アーバン・ミュージック、ラジオ局やビデオチャンネルのダンスフォーマットを基礎にしていると述べている。アップテンポでダンス志向ながら、ゆるやかでソフトなメロディーをのせる手法は、ユーロディスコの影響が色濃いともいう。このようにメインストリームからのトランスカルチャーによって成立している越僑の新しい音楽を「ニューウェイブ」として、ここでは用いている。
(7) 「メコンセンター」および「月刊メコン通信」の活動に関して、詳しくは稚稿「日本におけるベトナム語エスニック・メディアの現在」(2000年)を参照のこと。

参考文献

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日吉昭彦、「日本におけるベトナム語ポピュラー音楽イベントの研究 在日ベトナム人向け「エスニック・メディア・イベント」との関わりを中心に〜」、日本ポピュラー音楽学会(JASPM)口頭発表、於淑徳大学、2000年
Lull, James, Waalis, Roger, "The beat of West Vietnam", in ed. James Lull, "Popular Music and Communication", Newbury Park CA., SAGE, 1992
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