1. はじめに
1996年夏のことであるが、筆者は恩師である山中正剛教授とその学生とともに、阪神淡路大震災の後の神戸長田町を取材した。震災で被災した在日ベトナム人についての取材であった。当時、震災から1年半後を経ていたが、長田町近隣の公園には簡単なビニール・ハウスのテントを設営しキャンプ生活をしている在日ベトナム人の姿があった(1)。
筆者らの取材によると、震災直後の避難所では在日ベトナム人と日本人との間に文化の違いによる誤解やコミュニケーション・ギャップなどがあったという。言語や生活環境の違いからギャップが生まれ、噂が走り、在日ベトナム人側あるいは日本人側を擁護する避難所での日本人リーダー同士の相剋が生まれるなど、避難所という非日常的な共同生活空間のなかで、普段は目につきづらく、接することも少なかったエスニック・コミュニティーの人々との関係が浮かびあがったわけである。日本人との生活が難しいと考えた在日ベトナム人は避難所を離れ、ベトナム人同士で共同して生活を始めた。この出来事はマスコミでもしばしば取り上げられ、危機における異文化コミュニケーションの現状にさまざまな疑問を投げかけた事例といえよう。
筆者はこの取材のとき、公園にテントを設営しボランティアとして活動していた方の宅に滞在していたのだが、まだ10代半ばの在日ベトナム人少女が一人、住み込みで手伝いをしながら生活していた。ほとんどといっていいほど日本語を話すことはできなかったが、ボランティアの方の話を総合すると、難民の家族呼び寄せの制度で日本に来日し、直後に震災に遭ったのだという。震災後の生活苦と家庭内での不和がこうじて家出を余儀なくされたという。筆者はその境遇を知り理解したいと考えたが、言葉の壁を越えるのは容易ではなかった。数日間ほどそこで過ごしたが、この少女が筆者らに話しかけたりすることもなかった。あるとき筆者らは持っていた雑誌を広げベトナムの風景の写真を見ていた。少女は子供のようにはしゃぎ、その風景を説明しようとした。この写真がきっかけで、筆者と少女はベトナムにいた頃のことを絵で説明しはじめた。その絵からは、地方の山岳に近い農村の大家族のなかの生活を想像できた。冠婚葬祭用の伝統的民芸品を作っていたようであった。
筆者らが見せた写真は、いわゆる「観光むけ」雑誌の写真であった。カメラ・アングルに切り取られ人為的に構成されたイメージは、文化の限定的な露出となる場合があり、ときには単純でステレオタイピカルなイメージの付与や間違ったイメージの創出につながることさえある。しかし、ある文化に独特の象形というものは、そしてメディア・イメージというものは、ときに互いに自己を表現する「ことば」を創出し、ときに互いに自己の経験を認めあえる「わたし」を提供し、異文化を理解しあえるきっかけともなるのだ。
これまで白水(白水、1996/1998)や高梨(高梨、1993)、町村(町村、1992、1993 a,b、1994)などによって、エスニック・メディアは緻密に分析され、定義されてきている(2)。こうした「観光むけ雑誌の写真」はエスニック・メディアの範囲に含まれはしない。ただ、筆者はフールドワークを通じて、そして日常的な異文化コミュニケーションを行う一個人として、さまざまなメディアの力に触れた。これらの経験は、筆者がエスニック・メディアの研究に一つの資料を加えたいと考えた推進力になっている。
その後、震災時に神戸にあるカトリック教会「鷹取教会」で活動し、「FMゆうめん(3)」でベトナム語による震災情報を提供していて、こうした活動にリーダーシップを発揮していた在日ベトナム人のカトリック神父にインタビューをする機会があった。神父は自分が難民としてボートで国を出たときの話をプロフィールに、これまでの日本で受けてきた待遇、神父を志したわけ、長年の日本生活のなかでベトナム語を忘れてしまうことへの苦悩、ベトナム人の子供達が「自分がベトナム人だ」と言わないことへのショック、神戸のベトナム人たちが望んでいることなど、ライフヒストリーから在日ベトナム人の、そしてエスニック・コミュニティーの歴史を語った。後に紹介するエスニック・メディア「ティエン・ヴォン・クエ・フン/故郷の響き声」は、ベトナム語を忘れた子供たちと、日本語がなかなか修得できない親たちとのコミュニケーション・ギャップを埋めることを目的とした雑誌で、この神父の編集によるものである。こうした雑誌は言論や情報提供を機能に持たず、また、メディア産業や商業的な流通とは無縁のものであるが、明らかにエスニック・コミュニティーを基盤としているメディアである。
エスニック・プレスと民族集団とのかかわりの分析には二つのアプローチがあるという(新保ら、1991)。一つは「特定民族集団に視点を定め、そのなかでエスニック・プレスに研究の対象を限定する」ものであり、二つには「始めに当該社会全体を視野にいれ、特定民族集団をそのなかに位置付け、こうした準備作業のあとで、エスニック・プレスの分析にとりかかる」というものである。このどちらを選ぶにしても、膨大な対象に直面することになろう。在日ベトナム人のエスニック・コミュニティーの成員といっても、子供や若者に限定しても、難民の子供として日本に適応しているものやそうでないもの、呼び寄せで来日したばかりのものなどさまざまである。そして、エスニック・メディアの「送り手」のライフヒストリーも「受け手」のライフヒストリーも多様であり、その理解のためには、一方では日本のエスニック・コミュニティーの一端から文化、問題点まで、そして、他方では近代の世界システムレベルの政治的・経済的な歴史に必然的に触れることになる。また、コミュニティーとは何か、エスニックとは何かという範囲の設定の問題、マイノリティやサブ・カルチャーなど文化に関わる様々な精巧な概念、外国人/難民をめぐる法的な制度の問題、ネットワーク論や異文化論などさまざまな分野からの視点、言語や教育、人権問題との関わりなど、決して一枚岩ではありえない。こうした分野でのこれまでの莫大な研究業績に筆者が分析を加えたり概観したりすることは、とうてい手にあまる作業である。この点で本稿はこの数年来でフィールドワークによって非定型的・断片的ながら集めてきた資料による事例研究の域を出ないことを最初に述べておく(4)。
さて、本稿の目的は「ベトナム語のエスニック・メディア」について紹介するこである。エスニック・メディアは、言語も制作者の出身国もメディアの形態も多種多様であり(白水、1996)、しかも爆発的な増加傾向にある。また栄枯衰退は激しく、メディアをめぐる環境も次々と変わってきている。実際、白水の著書(白水、1996)で紹介されているベトナム語のエスニック・メディア「ジャオ・ルー/交流」は現在は休刊しており再発行のめどはたっていない。このようななかで、これまであまり紹介されてこなかったベトナム語のメディアの紹介が、エスニック・メディア研究の一つの資料となればよいと思う。
なお、本研究が対象とするベトナム語エスニック・メディアは以下のとおりである。
1. グエット・サン・メコン/月刊メコン通信
2. フン・ヴ・ロイ・チュア(意味:教えの言葉に忠実に)
3. ティエン・ヴォン・クエ・フン/故郷の響き声
4. ジャオ・ルー/交流(現在は廃刊中)
5. グエット・サン・ヒエップ・ホイ(意味:月刊協会)
6. バン・ティン・タン・フウ(意味:親善ニュース)
7. ノイ・ヴォン・タイ/手と手
8. バン・ティン KFC/KFCニュース
以上はすべて雑誌やニューズレターの形式をとったペーパーメディアであり、放送メディアは含まれていない。放送メディアに関してはいずれまた報告するつもりである。これらのメディアのうちいくつかは編集者との対面インタビューや電話インタビュー、参与観察やフィールドワークによる制作現場への立ち会い、スタッフへのインタビューを行っている。
本稿では、紙面の都合などを考慮して、本稿では上記の1番から4番までメディアを題材に、ベトナム語エスニック・メディアの機能について具体例を交えながら論じる。5番から8番については次号の掲載に見送りたい。総じて事例研究となるが、ベトナム語エスニック・メディアの理解にはある程度つながるであろう。
2. グエット・サン・メコン/月刊メコン通信
-ベトナム語エスニック・メディアの機能分析-
「月刊メコン通信」は、食材や書籍などを販売するコミュニティー・ショップの機関誌的な役割を持つメディアであるが、ベトナム語によって書かれたメディアのなかではもっとも発行部数が多く、扱われる内容は各種ニュースから娯楽情報までと幅広く、雑誌の形態をした総合紙である。ベトナム語エスニック・メディアのなかでは日本語欄を持つものは少ないが、この「月刊メコン通信」には2-3ページの日本語欄が設けられている。基本的な情報は資料-1に整理してあるので参照してほしい。本節ではこの雑誌の歴史や発行者の横顔、内容などの点から「月刊メコン通信」の機能と役割について考察したい(5)。
2-1. 「月刊メコン通信」と「メコンセンター」
「月刊メコン通信」は「メコンセンター」というベトナム人向けのコミュニティー・ショップが発刊しているものである。「月刊メコン通信」を紹介するために、まずはこの「メコンセンター」というコミュニティー・ショップを紹介しておきたい。
「メコンセンター」は、1985年に東京品川区にあるオーナーの自宅で、注文販売による無店鋪ショップとしてオープンした。1994年に東京大井町の商店街にある雑居ビルに移転し、店鋪販売を始めた。現在は2階と3階のフロアを利用して店鋪兼事務所を構えている。
店鋪兼事務所では、ベトナム語やベトナム関連の書籍・辞書類や雑誌、音楽テープ/CD/ビデオ/DVD/LD/カラオケなどのパッケージ・メディア、さまざまな雑貨、食材などを店頭で販売している。ずらりと並んだこれらの品物は圧巻だ。ほとんどの品物は、ベトナムからの輸入品ではなくアメリカや中国、東南アジアからの輸入品である。日本国内の書籍などをのぞくと、雑誌やパッケージ・メディアのほとんどは、メディア産業が成立している在米越僑社会で製作されたものである。食材などはベトナムと食文化に共通点のあるタイ製や中国製のものが多い。こうした品揃えは、ベトナムから輸入しづらい背景もあることには留意しておきたいが、在外越僑社会では文化産業において独自のネットワークがあることを伺わせるものである。
雑貨販売のほか、翻訳や通訳のサービス、ビサや航空券の手配などの事務を行っている。また店鋪兼事務所の上のフロアは「Cau Lac Bo ジャオ・ルー Van Hoa Viet-Nhat/越・日文化交流クラブ」と名付けられていて、ベトナム語講座やベトナム料理教室、コンピューター教室を開催している。アルバイト・スタッフが講師となって、週末には日本人がベトナム語や料理を習いにくる。週末のこのフロアは「ベトナム・カフェ」として軽食をとりながら集まったり話したりできるような場になる。このように「メコンセンター」は、ベトナム人同士やベトナム人と日本人の交流を、またベトナムに関心をもつ日本人同士の交流をも促進する、コミュニケーション・スペースとしての役割を持ち合わせている(6)。
上記のコミュニティー・ショップとしての特徴、つまり在外越僑社会とのネットワークの存在と国内でのコミュニケーション・スペースとしての役割は、「月刊メコン通信」の機能を理解しようとするとき、きわめて重要な要因となるであろう。すでに「月刊メコン通信」が「メコンセンター」の機関誌であることは述べたが、発行元のこうした特徴は、同様に「月刊メコン通信」の編集方針や特徴にも反映されているからである。さらに、コミュニティー・ショップで展開されるサービス内容は、異国での生活を豊かにする上で欠かせない日用品や娯楽の販売や、言語環境の異なる場で社会的生活を営むためのさまざまな制度上の橋渡しであり、こうしたサービス内容が「月刊メコン通信」の内容を構成しているのである。
2-2. 「メコン通信」の歴史と発行者の横顔
「月刊メコン通信」の刊行年は1985年である。「メコンセンター」が設立されたときに同時に刊行された。これまでのエスニック・メディアの研究では、ニューカマー自らの手による発行・編集は88-89年以降を待たなければならず、それ以前は在住コリアン/華人、欧米人向けがほとんど(7)、というものであった(白水、1996)。他誌と比較するとベトナム語エスニック・メディアは比較的に早い時期に発刊されていることがわかる。この点はベトナム語エスニック・メディアの特徴の一つであり、同時に在日ベトナム人のおかれた独特な境遇を示しているといえよう。「月刊メコン通信」の読者層にあたる在日ベトナム人は、1980年代後半以降に増加したニューカマーとも、それ以前から定住しているオールドタイマーとも歴史や背景が異なり、その多くは難民として日本に定住したものたちである。こうして発刊年度からみてゆくと、これまでエスニック・メディアの分類でしばしば用いられてきたオールドタイマー向けメディア/ニュカマー向けメディアといった観点によって、ベトナム語エスニック・メディアの分類をすることはできないようである。エスニック・メディアからみた文化的な多様性は、こうした視点からも知ることができよう。
ところで、1998年初夏まで、雑誌の形態は現在と異なりA5サイズの雑誌であった。ページ数も異なり、年4回の発行ペースで、雑誌名も「バン・ティン・メコン/メコン通信」であった。
発行当時の第一号は、ニュースや記事はなく、「メコンセンター」の商品カタログであった。ページも少なく32ページほどで、カタログ以外の内容は「メコンセンター」への商品の注文の仕方や、荷物の発送方法などが書かれていただけのものである。第二号からは、若干ではあるが日本での生活のための情報や知恵などが記事として含まれるようになった。こうして次第に日本文化の紹介や日本語の解説記事、ニュースなどが掲載されるようになり、現在の紙面編成に至っている。こうした雑誌発行のルーツと、編成の面における変化は、エスニック・メディアの特徴的なスタイルの一つだと言えるであろう。
発行人によると、このように若干のニュースが入り、ある程度は紙面が充実したとはいえ、この雑誌だけで収入を得ることはできなかったという。当時の「メコン通信」は無料で配付しており、広告もなく自費出版であった。広告といえば「いらなくなったもの売ります」というリサイクル広告が、最終ページに一つだけ載っている程度のものであった。当時は対ドルレートが200円代後半という状況で、アメリカからの商品中心の品揃えのコミュニティー・ショップでは苦労したそうだ。雑誌の編集といっても、当時はワープロで記事を書いていて、ベトナム語独特のアルファベットに加える発音記号などは手書きで付足していたのだという。こうした手作りのフリーペーパーという形式はミニコミ誌の形式である。当時の「メコン通信」はエスニック・メディアとして一人立ちしたものではなく、「メコンセンター」の活動の一部として販売促進のためのを補助的なメディアであった。こうした点もやはりエスニック・メディアの特徴的なスタイルであると言えよう。
ここで「月刊メコン通信」の発行人のについて紹介しておきたい。「メコンセンター」を経営して、これまで「月刊メコン通信」の編集をほぼ一人で行ってきたのがド・トン・ミン氏である。1950年にナムディンというハノイの南50キロほどの町で生まれた。1970年にサイゴンの農林水産大学から日本の明星大学に有機化学を学ぶため留学生として来日した。1975年に大学を卒業するが、同年4月にはサイゴンが陥落、南ベトナム共和国は事実上消滅した。その後は日本に亡命し、在日ベトナム人のための通訳や品川の国際救援センターなどの仕事を始めた。留学生として来日し、ベトナム戦争の終結で故郷を失うことになった。難民の来日時には、先に日本に来ていたベトナム人として、日本での生活適応の手助けのためのリーダーシップを発揮していた人物である。現在も、日本の外国人行政への意見書を出したり、同種の会議のメンバーとして発言するなど、人権運動家としての一面もある。
ミン氏は、1984年に2500の漢字を、音読み・訓読みのひらがなと、英語/ベトナム語と対応させた「常用漢字表」という辞書を作成している。この「常用漢字表」は、ひらがなを覚えても漢字の難しさに直面するベトナム人に好評であった。ベトナム人だけでなく、他の日本語学習をする外国人やベトナム語を学習する日本人も同様に利用できるため、マスコミでもしばしば取り上げられ、有名になった。現在では、ベトナムに住む日本語学習者にとっても資料として使われている。ミン氏は、90年代に入ってから、7つもの「漢越辞書」および専門語辞書類を編纂して、現在はベトナムの旧字体「チューノム」についての研究を行っている。
このような発行者・編集者の横顔から「月刊メコン通信」は、いわゆるこれまでのエスニック・メディア研究で言われてきた「知識人メディア」であるということができるだろう。一方、いわゆる「知識人メディア」と異なるところが、この「月刊メコン通信」にはある。それは「メコン通信」の内容が、主に在日ベトナム人の同胞のための生活情報や知識、知恵のために向けられたということである。当時、第3号から第6号にかけての記事を眺めてみると、「漢字を楽しく勉強する方法」や「明細書や源泉徴集書の漢字と意味の解説」、「金銭/食/職/学などの生活に重要な言葉の解説」、「日本で学校に行く」「呼び寄せて続きと法律」「盆と休日」などの制度や文化紹介、などとなっている。1980年代のベトナムは、カンボジア派兵への批判などから経済的には苦しく、ストレートな社会主義化にも行き詰まりを見せていた時期であると言われる。当時のベトナムでは言論の自由という考え方も西側諸国の論理とは異なる。こうした位置付けでの「知識人メディア」は政治的に激しい言論になりがちであると言われているのだが、「メコン通信」は生活情報を主な内容としていたのである。
ミン氏は1970年のはじめ、留学生たちとともに、留学生向けの新聞制作をした経験があるそうだ。もともとジャーナリストというわけではないが、「こうした体験を生かして雑誌作りもがんばろう」と「メコン通信」の発行に踏み切ったという。雑誌発刊の動機はこのように雑誌の記事と発行者の経験をみてゆけば明白なものであるが、筆者のインタビューの際に当初の動機として、「ベトナム人は、1980年代半ばには全国バラバラに生活するようになったので、なかなか分らない、みなのために作ろう」と考えたと答えている。難民として来日し、定住促進センターを出ると、最初は近くで共に生活しているが、「滞在が長くなるとみなが働きに遠くに行くようになる。親しい友人ともめったに会えないし、集まりを開くにもなかなか機会がない。趣味の会う人もなかなかみつからないし大変だ」という言葉はしばしば在日ベトナム人の口から耳にするものである。こうしたとき、さまざまなイベントの情報等で、集まる機会が「メコン通信」で紹介されたり、あるいは友人と話せなくとも母国語であるベトナム語に触れることができたりするということは、集団の第一次的コミュニケーションを補完するエスニック・メディアの機能である。
2-3. 定期広告と日本語ページの掲載
1993年には「メコン通信」に国際電話会社「日本テレコム」の広告がつくようになった。この頃から、雑誌の裏面に全面広告が掲載されるようになり、出版は広告費によって成り立つようになった。この時期も読者からの購読費はとっていないが、出版費用はこの広告費でほぼまかなえることができたという。
「日本テレコム」では雑誌で広告を出すだけでなく、「メコンセンター」利用者や「メコン通信」読者向けの、さまざまな広報サービスを展開している。「メコン通信」には、在日ベトナム人が日本とベトナムの休日や「メコンセンター」の開業記念日に店鋪を訪れたりすると、「日本テレコム」のサービスでベトナムまでの5分間の国際電話料金が無料になる、と記されている。「メコンセンター」が主催のイベントには、しばしば「日本テレコム」がブースを出しており、連絡先を書けば、やはり5分間無料でベトナムにその場で電話をすることができる。また、「日本テレコム」を利用してベトナムに電話をした利用明細書を「メコンセンター」に持参すると、その金額の1割分を「メコンセンター」で商品と引き換えることができる。
現在のところ定期的な広告は「日本テレコム」のみで、ごくたまにベトナム料理店やリサイクルショップなどのエスニック産業の広告や、バザーのお知らせなどが掲載される程度だ。ミン氏は「ベトナム人は店をやっても、宣伝するという習慣がないし、かえってやらないほうがいいという考えも持っている。アメリカのように大きなコミュニティーになれば宣伝は必要だが、日本では小さいから、みんなどこに何の店があるか知っているし、こうした広告はこない」と言う。広告観の文化差はさておき、こうした広告の現状から在日ベトナム人コミュニティーの特徴の一端を知ることができよう。在日ベトナム人のコミュニティーはその他の日本在留外国人と比べて人数は少なく、そのコミュニティーの規模も小さいのである。ひいてはエスニック・メディア産業の成立の基盤も小さくなり、10数万人の在留同胞を持つ日系ブラジル人向けのエスニック・メディアなどとは存立基盤に大きな違いがある。いずれにせよ、1993年から現在まで継続的に「日本テレコム」の全面広告が出されていることを考えると、「メコン通信」が在日ベトナム人読者に持つ影響力の一端も知ることもできよう。本稿では「メコン通信」の読者、つまりエスニック・メディアの「受け手」についての分析はほとんど行っていないのだが、上記の「日本テレコム」のサービスは、顧客確保のための広報戦略として、「メコン通信」や「メコンセンター」が持つ在日ベトナム人ネットワークを期待して行っていることは明らかであるからだ。
「メコン通信」は1998年初頭まで、ニュースのページを増やしつつ、年4回の発行を続けてきた。それが1998年初夏には、一旦、タブロイド形式の新聞に姿を変えた。この時は発行回数も増え隔月刊となった。日本語のページができたのはこの時である。日本語のページを作ったときの気持ちをミン氏は次のように語っている。
日本語のページを作った時は、書き手がいるかどうか心配でした。自分では書けませんから。ベトナム人はね、日本人がどういうふうにベトナムのことを考えているのか、見ているのか、知りたいと思っています。自身の鏡をみてみたい気持ちですよ。それに、日本人にもメコン通信を読んでほしいです。簡単なことなら分るでしょう。イベントのこととか、CDのこととか。でも全部ベトナム語だと、うわ〜って言って見ないですよ。分らないって。でも、日本語のページがあればちょっとは開いてみようかという気にもなるし、それからちょっと別のページも覗いてみようかという気にもなる。
白水はエスニック・メディアの定義に際して、「外国語メディアや外国人向けメディアのなかに『少数派と多数派のよりよい関係を目指して』という編集・編成方針が貫かれているものがある。これを『異文化交流メディア』と呼ぶ」と述べている(白水、1998)が、上記の発行人の言葉は「異文化交流メディア」としての機能を持った「メコン通信」を端的に表した言葉といえるだろう。
母国語だけでなく、そのメディアが発行される国における主流の言語を取り入れてゆくという編集・編成方針の変更の流れは、エスニック・メディアの特徴的なものである。さまざまな理由はあろうが、言語的に当該社会に適応した二世三世が読者の対象となることは大きな転期であろう。筆者のインタビューでも、在日ベトナム人の二世たちの言語をめぐる状況に日本語ページ製作の理由があるのでは、という趣旨の質問をしたが、現時点で発行人はこの点に関して重きを置いているわけではないようであった。むしろ異文化交流の十字路としてのメディアの役割を期待しているようである。
さて、タブロイドの新聞による形式の発行は数号で終わった。発行者によると、その主な理由は予算の増加である。「メコン通信」は再び雑誌の形式に戻り発行を再開した。このとき、雑誌の形式はB5サイズからA4に変更となった。これと同時に発行回数も増え月刊紙となり、名称も「月刊メコン通信」と変更された。
さらにメディアとしての大きな転機を迎えることになる。これまでフリーペーパーであった「メコン通信」は、購読料によって出版費を構成する有料のメディアを目指すのである。
13年間、無料で配ってきた。これまで(13年間)の雑誌制作費用は2000万円にものぼっている。当初300-400部だった出版部数も、2200部にまで膨れ上がった。2200部だと郵送費だけで30万円以上かかる。これ以上、無料で配っていても発展は望めない。しかも、ただで配っているのだが、これといった反応を寄せてくれるわけではない。送ったら送ったまま。
購読料は年間契約で3600円だ。無料配付時に2200を数えた出版部数は、有料になってから1000部ほどになったという。ただ、購読料をとるのは個人の購読者だけで、日本にあるベトナム関係の団体やレストランなどのエスニック・ビジネスの団体、外国のラジオ局や雑誌社などのメディアには無料で配送している。また、「メコンセンター」を訪れた人には無料でストックを配付している。たとえ有料になったとしても、コミュニティー・メディアとしての基本姿勢や、在日ベトナム人のためのメディアという当初の目的が変化したわけではない。
発行者は「雑誌が有料になったことから雑誌の編集には努力している」という。そして「売るならニュースを提供したい」と意気込みを語っている。実際、雑誌が月刊になったことでニュースの新鮮さは増したといえるだろう。在米ベトナム人コミュニティーのメディア産業で製作されるパッケージ・メディアは、マス・カルチャーの様相を呈している。月刊とはいえ速報性は在外同胞との文化的な繋がりを維持する上でも重要なことであろう。
しかし、製作の現場をみると、必ずしも以前と大きな変化があったわけではない。むろん現在は以前のようにワープロで打った文章に手書きで修正していくという苦労はない。事務所のコンピューターで、DTPソフトを用いて版下を製作している。ベトナム語のフォントを用いて、写真以外の記事は印刷前にほぼ完成形に近いレイアウトをすることができる。こうして製作したものを印刷所に送っている。編集に関わる技術の進展はたしかにメディア製作を容易にしたといえるが、「メコンセンター」にはスタッフは少なく、すでに書いたように主な編集作業はほぼミン氏が一人でこなしているという状況である。こうした状況は年4回の発行であった雑誌発刊当初と変わったわけではない。ベトナム関連のイベントがあるとミン氏はカメラを下げて記者としての姿を表す。来賓として招かれる立場であるような場合でもこうした姿を見かける。速報性やニュース価値が高まるということは、つまり取材や編集の期間も短くなることでもあり、雑誌発刊に関わる苦労は察して余りあるものがある。こうした点をふまえた上で現在の「月刊メコン通信」がどのような内容であるのかということを、最近刊行された号を題材にその編成をみてゆきたい。
2-4. 「月刊メコン通信」の内容
「月刊メコン通信」は基本的には総合誌であり、ニュースや特集記事、連載記事などで編成されている。「メコンセンター」の機関誌としての位置づけもあり、自身の店鋪の紹介や商品の紹介も掲載されている。筆者は雑誌を前に発行者ミン氏にインタビューを行った。一つ一つの記事の位置づけや記事の書き方、思い入れ、歴史などについて尋ねた。こうして集めた記録から「月刊メコン通信」の内容の現状を紹介したい。
紙面を開くと、まず最初に巻頭の挨拶が述べられ、季節の挨拶や「メコンセンター」が関連した行事の紹介などが書かれている。自身の店鋪の広告や商品の買い方などが毎号掲載されている。こうしたカタログ性は雑誌発行当初から見られている編成方針の一つである。しかし、単なるカタログ性に終止するものではない。「メコンセンター」の関連した行事は、すなわち在日ベトナム人コミュニティーに関わる行事の紹介なのである。「メコンセンター」の活動紹介の記事は、エスニック文化のイベントを記録する役割を持ち合わせているといえよう。
こうした記録のなかには、日本とベトナムの友好を示す異文化交流イベントの紹介がみられたり、「メコンセンター」がマスコミなどに取材・紹介されたことの紹介がみられる。またそこにたずさわった人の名前を目にすることができる。こうした記録は一面では「メコンセンター」の広報の役割を担うわけであるが、同時に自身が属する民族集団の活動が明らかになることは、民族的アイデンティティの空間の存在を示し、民族集団の維持機能を担うと考えられるであろう。また、現在の生活基盤となっている日本社会への参与やアクセスを定期的に示すことでもあるのだ。
さて、ミン氏が記事のなかでも特に力を入れているのが、1991年から毎号で連載している「Thu Dong Kinh(意味:東京だより/以下日本語訳記載)」である。記事名には「東京」と書かれているが、内容は日本で起きた重要な出来事や事件について解説するものである。形式はその号その号によって異なるが、たいていはいくつかの小さな記事と特集に分かれていて、その内容は政治・文化・科学・事件などである。こうした記事のなかには、日本独自の文化の紹介や、在日ベトナム人コミュニティー内の活動などが含まれる場合があるが、たいていはマス・メディアでも報道されている「主流」な出来事である。
読者はテレビなどを見て、雰囲気はつかめるが詳細がよく分らない、といったことが多くあるそうだ。日本で生活する上で、日本のメディアを情報源とすることは日常的なメディア利用のスタイルであるが、言語の壁を乗り越えることは容易ではない。自身とかかわり合いの深いニュースであれば、詳細が分からないことは大きな不安が生まれたり誤解につながる可能性がある。ニュースの解説はニュースの理解につながる。また、日本独自の文化の紹介は、日本人とコミュニケーションを円滑にし、日本で生活する上での知恵として役立つ。こうした点が「東京だより」の目的の一つであるという。実際、季刊で発行していた頃も、また月刊の現在も、読者の評判はよいそうだ。思い出に残っている記事に、「オウム真理教事件」の記事があるという。記事を書く本人もテレビにかじりついて、大量の情報を集めるのに苦労したのだそうだ。「阪神淡路大震災」のときは号外も出したという。
このような解説性の機能は、季刊や月刊など発行期間の長いメディアの利点である。さらに、言語的な障壁や異文化に面する同胞に正確な情報や知識を提供するという、エスニック・メディアならではの解説性の機能が含まれることになる。
この「東京だより」には在日ベトナム人のための情報提供以外に、別の一面がある。ミン氏は、1970年代当時の同級生などの多くの知り合いが、在外越僑メディア産業で働いているという。こうしたメディアでは、自国以外の在外同胞の動静は極めて重要なニュースになっている。数多くある越僑の住む国のなかでも、日本は先進国であり、皆の興味を誘う。しかし、ベトナム人の数が他国と比べて極めて少なく、よってこうした在外越僑社会をまたにかけて活躍する人材も必然的に少なくなる。そうしたなかで、在日ベトナム人に何かあればすぐに世界に知らせることができるようにするためにも、全世界の在外越僑社会の興味関心を常にひくことは重要なことであるという。そのためにも、日本の時事ニュースや珍しいことなどを記事にしておくのだそうだ。「月刊メコン通信」は世界各地の在外越僑メディア産業の大手に配信され、それがニュース源となって伝わっていくという。ミン氏は、こうした在外越僑の主要メディアの東京発の通信員としての活動も行っている。
「東京だより」と傾向の似た記事として、特集記事「Tim Hieyu Nhat Ban(意味:日本を理解する/以下日本語訳記載)」というコーナーがある。発刊年度から連載が続いている日本文化や日本語の紹介である。この「日本を理解する」の記事の集成は「ベトナム人がみた日本(仮)」と題した書籍として出版される予定があるという。この書籍はミン氏と同様に全世界で活動する在外越僑の著者たちが自身が生活する国の文化を紹介するシリーズの一つである。このように国境を越えるエスニック・メディアの記事は、在外越僑文化の一面を成す。現段階で世界に広がる在外越僑メディアの影響力について論じることは筆者には難しい。しかし、この事例から、異なる国で生活する同胞が互いの生活や環境を知り、国境を越えた民族集団のつながりや絆を確認する手立てに、「月刊メコン通信」のようなエスニック・メディアが一役買っていると考えることができるのではなかろうか。
次に時事を扱うニュースについて紹介したい。ニュースは「ベトナムのニュース」「世界のニュース」「科学のニュース」「生活のニュース」「芸能人のニュース」といった欄に分かれて掲載されている。「ベトナムのニュース」はベトナムでの出来事を扱うニュースである。以前はより広汎な取材網を持つ日本以外の在外越僑メディアや、ベトナムから輸入した新聞などを情報源にしていたという。しかし、現在の「ベトナムのニュース」の情報源は主にインターネットを用いている。共産党の機関誌「Nhan Dan(意味:人民)」、労働組合系の新聞「Lao Dong(意味:労働) 」や、「Tre(意味:若者)」「ha Noi Moi(意味:新しいハノイ)」、英字版「Vietnam News」など、ベトナムの新聞の多くはインターネット上で新聞を発行している。こうしたなかには、ベトナム政府からの在外越僑むけの情報も公開されている。こうした情報を取捨選択して、解説を加えて記事にしている。これらの記事は全てがミン氏の記事ではなく、「メコンセンター」の準スタッフやアルバイトの留学生が書く場合もある。その解説の内容において、政治的な批判は避けているという。すでに述べたとおり「月刊メコン通信」の基本的な目的は政治的な言論ではないからだ。「世界のニュース」は、日本語の新聞記事などから取捨選択して、翻訳して解説などを加えたものだ。やはり発行人が選んだものを、スタッフなどが翻訳して、解説を加えたりしている。「科学のニュース」という言葉は見慣れないかもしれないが、これはベトナム語エスニック・メディアの新聞の特徴であり、たいてい大きな一つのコーナーとして独立している。日本だけでなく、世界やベトナムの科学技術の発展に関するニュースを扱う。「生活のニュース」は在日ベトナム人の生活に関数するニュースだ。「生活のニュース」は「月刊メコン通信」の取材による独自の記事である。これらのニュースはいずれも情報提供にともなう解説性にニュース価値をみることができるだろう(娯楽の機能をもつ「芸能人のニュース」に関しては2-5の項で詳述する)。
ニュースのほかでは、特集記事や文学作品が掲載されている。特集記事は発行人の記事のほか、在外越僑の作家らが寄稿している。例えば、本稿執筆時に連載中の「カトリックの村」という小説はグエン・ゴック・ガン氏(Nguyen Ngoc Ngan)氏の作品だ。グエン・ゴック・ガン氏はもともと英語教師であったが難民としてアメリカに渡り、現在は人気の小説家であり、司会者としてエスニックなメディア・スターとしての一面も持つ。こうした作家たちは、雑誌冒頭に記された編集部スタッフの欄に名をみることができる。実際に編集作業を行っているわけではないが、寄稿という形で編集に携わっていることになっている。こうしたエスニックなメディア・スターは芸能人ニュースを担当するスタッフのなかにもみられる。ニュー・クイン(Nhu Quynh)は在米の若手の人気女性歌手であり、ベト・ユン(Viet Dung)も歌手でありながら在米のベトナム人向けのラジオ局のディレクターである。もしもベトナム文化に興味がなければ、彼・彼女らの名前を知ることはないかもしれないが、在外越僑のあいだでは熱狂的に受け入れられているメディア・スターたちなのである。このような形での有名人の起用は、明らかに「月刊メコン通信」の権威づけに結びついている。ここで重要なのは、権威づけによる媒体価値よりも、こうした起用にみられるメディアの国際的な性格であろう。「月刊メコン通信」は、日本の在住外国人が自らの手で発行するエスニック・メディアという枠組を越えて、世界規模に広がる越僑社会のメディアの一つとして存在しているのである。つまり、世界的な言語や文化、メディアの多様性のなかの一端の担っているという意味で「エスニック」なメディアなのである。この点で、「月刊メコン通信」は町村が述べる「脱地域化するコミュニティの中の自己表現」としての「越境者メディア」としての位置づけができよう(8)。
一方、「月刊メコン通信」には在日ベトナム人が作った詩やエッセイなどの紹介も掲載されている。読者の投稿による短編小説などが掲載されている。また読者からの投書や手紙なども掲載されている。こうした寄稿は雑誌の巻頭で呼び掛けのアナウンスがある。投稿は主に手紙やE-mailで送られてくるそうだ。
グエン・ゴック・ガンという有名な小説家は、難民としてマレーシアでキャンプにいたとき書きはじめた。自分の将来はどうなるだろう、船で出てきたときの激しい記憶や死んだ妻や子供が頭に上り、国や家族のことも心配になる、いつどこの国にいけるか分らず、マレーシアの島のなかで時間だけが過ぎていく、そんななかで書きはじめた。最初の小説は決してうまくなかった。だから英語で書いたりしていた。しかし、そのうち書き続けて、今では一番の小説家になった.....
ミン氏は上記の例をだしつつ、「月刊メコン通信」の掲載を激励としてよりよいものを書いてほしいという。後にもふれるが、こうした掲載は白水が述べるような賞揚機能の一つであり(白水、1996)、また読者との距離の近さはエスニック・メディアならではのものである。
そのほか、娯楽として「笑い話・小咄」「マンガ」などがある。この「マンガ」はミン氏の娘さんの作品だ。娘さん自身は日本語で教育を受け、ベトナム語をあまり話せない。マンガも日本語で書いている。将来はマンガ家になりたいと考えている中学生だ。ミン氏がベトナム語に翻訳してバイリンガルになっている。つまり、作品自体は素人の作品であり、読者の投稿と同様に賞揚機能の一端を示している。しかし、一方ではベトナム語の話せない在日ベトナム人二世子供のベトナム社会への参画きっかけにもなっているのである。いずれこうした風潮が紙面に現れてくるかどうか定かではないが、象徴的な事例ではあろう。
最後にふれるのは、1998年の冬から登場した日本語のページである。内容や編成はまだ整っていないので、最近の記事を紹介しよう。「私とベトナム」という海外生活記録や「国際結婚の経験談」、制作者の著作を翻訳した「漢字とチューノム」、ベトナム料理の紹介、日本の雑誌に掲載されたスタッフの記事の転載などである。日本語のページはおもに、メコンセンターの寄稿スタッフが担当している。日本語ページの追加という事象は、エスニック・メディアの分析の視点として非常に興味深いものである。そこで分析は次項の「スタッフの役割」という観点から詳しくみてゆきたい。日本語ページの分析のためには日本人スタッフのエスニック・メディアにおける役割という視点が欠かせないからである。
2-5 スタッフの役割
これまで述べてきたように「月刊メコン通信」は、「メコンセンター」を経営するミン氏がほぼ一人で、取材から資料収集、編集作業までを行っているわけだが、裏で支える在日ベトナム人スタッフや、日本人スタッフの役割を忘れるわけにはいかない。
まず、「メコンセンター」の資料には社員が二名とあるが、もう一人の社員とはミン氏の妻である。1975年のサイゴン陥落の時、恋人同士であった二人はしばらく互いに連絡がつかなくなっていたが、互いに10年近くを待ちようやく結婚し、日本で暮らしている。一男二女をもうけた。「メコンセンター」で事務を行っている。
以前「月刊メコン通信」は、印刷が終わった後の袋詰めから発送作業まで、すべて自宅で行っていたそうである。手作業である。4ケ月に一度の発送作業の時期には、子供3人と奥さんと家族総出で発送作業を行っていたそうである。このように雑誌は手作りで、出版社といっても家族を単位とした小さな団体である。これまで14年間、雑誌作りを陰で支えてきた家族の役割は大きい。
スタッフのなかでも、在日ベトナム人で実際に記事を書いている人物がいる。十数年前に難民として日本に来日した。当時の年齢は10代で、長崎の「大村難民センター」で定住教育を受けた後、音楽の専門学校を出て、神奈川の大和に引っ越してから、フィリピン人のバンドでギターを演奏したり、日曜日にはベトナム人の集まる教会で聖歌合唱のためのギターを伴奏などをしていた。その間から現在まで会社員として生計をたてている。まだベトナムに帰郷していない。「月刊メコン通信」で記事を書くようになり、さまざまな情報の翻訳作業や、ベトナムのニュースの解説などを行っている。ミン氏が長期で出かける間は編集をまかせれており、雑誌編集においては重要なスタッフである。
筆者は、ベトナムのニュースの扱いについて尋ねたところ、「政治的な批判を扱うのではない。自身の背景と照らし合わせても、それは過去のことである。今のベトナムで何が起こっているか書く。その記事をどういう風に書くかではなく、出来事を読者に伝えて判断してほしい。なにが正しいか教えるのでなくて、世界でさまざまな考えや価値があることを伝えたい(筆者要約)」と答えている。ジャーナリスティックな視点はイデオロギーに傾むことなく、一人の在日ベトナム人として、そして難民としての日本での生活の苦労が心から分る人物として、在日ベトナム人社会の将来を思い、身近なコミュニケーションの場を作りだそうとしているのである。このように定期的な編集スタッフではなくとも、「メコンセンター」のアルバイトとして働く在日ベトナム人が、記事製作にたずさわっている場合もある。
記事にたずさわるスタッフのなかにはベトナムからの留学生のアルバイトがいる。週末にアルバイトに来る留学生は、事務のかたわらで、インターネット上のベトナムの新聞やE-mailで送られてくる在外越僑メディアからの情報を整理したり、日本の新聞をベトナム語へ翻訳する作業を行ったりしている。現在留学中の若い学生はベトナムとの社会的な結びつきも当然強い。1950年代にベトナム版ルックイーストである「東遊運動」があった。日本への留学運動の一つである。ミン氏は、 この「東遊(ドン・ユウ)」を名に冠したドンユウ日本語学校出身の留学生OBだ。留学生団体としての縦のつながりが、「月刊メコン通信」を通じて在日ベトナム人社会に開かれている点は注目に値するだろう。こうした留学生の協力は、「月刊メコン通信」を在外越僑社会に閉じられたメディアから、在外ベトナム語圏というグルーバルな空間に位置付けるパイプとなっているといえるのである。
町村は「移動が自由になり、留学が一般化してくるにつれ......留学生向けメディアと、一般の外国人向けメディアの境界は、ますます低くなっていくだろう」と述べている(町村、1992)。ここでは町村は「留学生・知識人によるメディア」を対象として論じているのであり、前提となる部分、つまり移動の自由と留学の一般化という部分は「月刊メコン通信」の例とは異なるが、境界が低くなっているという点はあてはまるようである。町村はこうした留意をつけながら、エスニック・メディアの興隆の歴史的観点から「留学生・知識人によるメディア」と「外国人居住者向けメディア」に分類している。しかし、「月刊メコン通信」を「送り手」であるスタッフの観点から分析すると、このいずれにも属すともいえない境界線上のメディアなのである。
次に、日本語ページのスタッフである日本人スタッフについてみていきたい。
A氏は「海外生活アドバイザー」という肩書きを持つ。異文化間コミュニケーションの研究会などでも活躍するこの分野の専門家である。日本語ページ開設以来、連載が続く樋口氏の「私とベトナム」というエッセーは、ベトナム滞在時の回顧録だ。ベトナム人の人柄や文化の違いを、一つのテーマをもとに新鮮に描くものだ。家族の赴任でベトナム在住経験を持つ。帰国後の現在はベトナム文化を日本で広げるための交流サークル「バナナくらぶ」を主催していて、「メコンセンター」でもしばしばイベントを開き、在日ベトナム人と日本人の交流の場を設けている。雑誌冒頭の編集スタッフの欄には「協力・後援」団体が記されているが、「日本テレコム」と並んで「バナナくらぶ」の名もみられる。この会の主催者である樋口氏は、「月刊メコン通信」の「異文化交流メディア」としての機能の一端を担っているのである。イベントを開くためには「メコンセンター」のようなエスニック・コミュニティーの場が必要となる。「メコンセンター」に来店するものは「月刊メコン通信」の読者でもあるから、寄稿することによってこうしたサークル活動を広めるきっかけとなる。日本人スタッフとしての樋口氏の役割は、異文化交流の促進に加え、エスニック・メディアを通じた一次的なコミュニケーションの補完という役割を果たしているといえよう(9)。
外務省の事務官で、著書にベトナム関連の書籍もあるB氏(男性)は、「私の国際結婚」というテーマで記事を寄稿している。B氏はベトナム人の女性と結婚しているのだが、自らの異文化経験を重厚な筆致で描いたものだ。こうした異文化を切り口とした記事は、前述の「東京だより」などでベトナム語によるものもあることを考えると、紙上にベトナム人としての視点と日本人としての視点の両者があることになる。このような編成が、心理的にも「異文化交流メディア」としての性格を強めているといえよう。B氏は仕事柄、イベント時には招聘業務などで「メコンセンター」と協力関係にある。「月刊メコン通信」が広めるメディア・イベントのバックアップをも担っている。
ベトナムとフィリピンを専門領域とする音楽ライターで、コンピューター技術者でもあるC氏(男性)は、これまでさまざまなメディアでベトナム音楽を紹介してきた。独自で綿密な取材をもとに書かれた記事は、音楽専門ライターならではの質の高い記事だ。こうしたプロフェッショナルな仕事が「月刊メコン通信」に反映されることは、すなわちメディアとしての質の向上にもつながっている。エスニック・メディアは、その産業としての基盤の弱さによる質の低さを指摘されることがあるが、日本人スタッフの協力はこうした欠点を補って余りある。
C氏は「ベトナムの音楽のことは書けば書くほど赤字」になるという。それでも「メコンセンター」でCDを購入し、イベントとあればカメラを持って取材にくる。取材でありながら、イベントのボランティアとして、あれこれ裏方の仕事をすることもある。こうしたボランティアとして参加する日本人スタッフも、メディア・イベントをバックアップし、「月刊メコン通信」が広めるメディア・イメージを現実化させるためには欠かせない。こうした積み重ねは、表層にあらわれなくとも「月刊メコン通信」をめぐる在日ベトナム人文化の一部を成しているのである。「月刊メコン通信」への寄稿はもちろんボランティアである。
D氏(女性)はプロフェッショナルのイラストレーターであり、これまで雑誌のデザインの仕事などを手掛けてきた。ベトナム留学経験もあるD氏は、短期のベトナム旅行に出かけた後、ベトナムが好きになり、「メコンセンター」の紹介記事をみて、ベトナム語教室に通うようになった。このときイラストレーターの腕前をいかして、日本語と図解でベトナム料理の作り方を「メコン通信」に掲載をはじめた。連載が始まったのはまだ日本語ページのなかった時期であった。D氏は自ら版下を制作しているが、レイアウトの質はプロフェッショナルなものである。C氏と同様に、専門家として雑誌の記事の質の向上に寄与しているといえよう。
D氏の記事には、必ず日本で生活している在日ベトナム人が登場する。イラストで描かれた料理講師は実在の人物である。料理店のオーナーであったり、作者の友人であったりする。日本人と結婚した女性に、結婚式で食べる料理についてインタビューなどが掲載されたこともあった。ごく身近な人が雑誌に掲載され読まれるということは、話題の提供となり、生活のはりにもつながる。マス・メディアとは異なった視点からの在日ベトナム人の役割モデルの提供にもなるのである。
マス・メディア関連の組織に勤めるE氏(男性)は、開高健の著作を読みベトナムに興味を持ったという。大学時代はベトナムへの投資ブームと社会変化をテーマに論文を書き、これまでベトナム旅行の経験も多い。望月氏は自身のインターネットのホームページで、「民際関係」をキーワードにしたベトナム関連のルポルタージュを制作して情報発信している。「メコンセンター」とはベトナム語教室に通ったのをきっかけに付き合い始めた。E氏は「メコンセンター」の活動を取材し、ホームページで報道記事を掲載したところ、それがそのまま「月刊メコン通信」に転載された(10)。「メコンセンター」と付き合いはじめると、「なかば身内のような扱い(望月氏)」になると言うが、実際にスタッフとの関係は契約云々ではなく、家族関係の延長のような身近なものである。いずれにせよ、日本人としてベトナムに興味関心を持ち情報発信しているものと、相互な情報交流があることは、情報源やスタッフの少ない小規模メディアにとって、ジャーナリズム的視点の多様性をもたせることにもなるのであろう。
2-6. エスニック・メディア・イベントにみる「月刊メコン通信」の機能
1999年の秋から「月刊メコン通信」の表紙には、アメリカ在住の人気歌手とともに、在日ベトナム人の写真で飾られている。彼/彼女らは1998年に「メコンセンター」が企画した在日ベトナム人向けコンサートで、在米の人気歌手とともに歌声を聞かせていた人物である。
これまでエスニック・メディアの「送り手」や組織の観点から「月刊メコン通信」について分析してきた。もしメディアの機能について総合的に論じるならば「受け手」である読者についての分析は欠かせない。しかし、読者像を把握するための「受け手」調査は難しく、また配送先を対象とした資料の公開は経営上の問題もあろう。
「月刊メコン通信」のメディアとしての影響力はどの程度のものであるのだろうか。そこで、本稿では「メコンセンター」が企画し、「メコン通信」を通じて広まり開催されたメディア・イベントを題材に、メディアの影響力についてごく簡単に触れておきたい(11)。
「メコンセンター」は1999年に在米の人気歌手を招聘したコンサート・イベントを企画した。一年ごしの計画で招聘したのは、実力派女性シンガーや人気沸騰中の若手女性シンガー、北米のベトナム人向けラジオ局のデイレクターでもあるフォークロック歌手などで、在外越僑社会のメディア・スターたちであった。日本ではこれまでもこうした人気歌手が来日したことはあったが、メディアと連動したイベントとして大きな注目を浴びた。こうした歌手たちは、年末のイベント時期にはベトナム人の多く居住する地域で公演を行う。ベトナム人が少数である日本に招聘することは多くの面で困難が伴ったという。このコンサート・イベントの企画内容は、1998年に発行された「メコン通信」で逐一報告された。歌手の招聘のために、ミン氏はアメリカに渡り交渉し、こうした様子は記事ともなった。「メコン通信」の「芸能人ニュース」のコーナーは盛り上がりをみせ、来日する予定の歌手が大きく紙面を割いて登場していた。
この「芸能人ニュース」のコーナーに、在米の有名歌手と並んで紙面で紹介された人物たちがいる。このコンサートで演奏を担ったバンドのメンバーと、こうした歌手と一緒にステージに上って歌声を聞かせたものたちで、一般の在日ベトナム人たちである。ベトナム風のコンサートは、通常、歌手が複数登場して一つのステージを構成するオムニバス形式で行われる。このコンサートも同様で、歌の得意な在日ベトナム人6人がステージにたった。また、コンサートの演奏は在日ベトナム人が主体のバンドによって行われたのだった。在日ベトナム人の歌い手のなかにはCDを発売しているものもおり、またバンドのメンバーのなかには音楽で仕事をしていたものもおり、在日ベトナム人のイベントにこれまでも参加していたりして知名度がある場合もあるが、現在の日本の生活では演奏者としてのプロフェッショナルではない。むしろ、熟練労働で毎日を厳しい単純労働で過ごすものがほとんどのメンバーであった。「メコン通信」はこうした彼らを、プロフィールや顔写真とともに大きく取り上げた。在米の有名歌手と同様に、大きき紙面を割いて彼らは紹介されたのである。こうしたメディアと連動したイベントが、彼ら/彼女らの激励となったことは間違いない。白水はエスニック・メディアの賞揚機能機能をあげている。ごく普通の「エスニック・グループ内の個人」が「ハレ/非日常的経験としてメディアに登場」することが激励につながることである(白水、1996)。「メコン通信」の「芸能人ニュース」はこの点で賞揚機能を担ったといえる。
登場した在日ベトナム人たちの多くは難民である。日々の仕事に追われ、音楽のような趣味に費やす時間はほとんどなかったという。たとえバンドを作って、人前で演奏したくとも、在日ベトナム人が日本全国に散らばって生活しているなか、ベトナム語の音楽で集客を望むことは難しく、続かなくなってしまう。このような状況だが、在米の有名歌手とともに演奏するということで、遠方から音楽仲間が集まり、毎週日曜日に長時間の練習を積みはじめた。なかには初めてステージに立つというものもいた。バンドの練習には場所が必要だ。練習はルサイクル品の倉庫を借りたガレージだった。この場所は一種の集会となり、地元の友人が集まる場所になった。場所を提供する神奈川で土地を持つ在日ベトナム人も巻き込んで、趣味という豊かな時間を、イベントの成功を目指す目的のなかで作っていったのである。日本に定住して長い月日がたてば、生活環境や生活空間が広がりを見せる一方、同胞との距離は離れてゆく。このようななかでメディア・イベントは、娯楽を提供しつつ、エスニック・コミュニティーの社会関係に刺激を与えた。「メコン通信」のメディア・イベントは、このような実際的なコミュニティー・スペースの創造につながっていたのである。
このコンサートは、品川にある客数400人ほどのホールで、一日二回のステージが行われた。席によってが1万円の値がつくチケットであったが、完売して立ち見が出るほどであった。関西からのツアーを組んで見に来たものもあった。「メコン通信」の読者への効果は決して目にみえるものではないが、こうしたメディア・イベントへの反応から理解することができるであろう。
ホールを在日ベトナム人が埋めつくす姿は、生まれつつある日本の文化的な多元性の一部を垣間見るようであった。白水が言うように、エスニック・メディアは、「範域を越えた心理的コミュニティ」としての「エスニック集団」を形成し「エスニック・アイデンティティを覚醒する」(白水、1996)。それと同時に、こうした集団を可視化し、アイデンティティの存在証明を外化して自身の集団の成員に示すだけの瞬発力を持ち合わせている(12)。それは文化が生成する瞬間なのである。
2-7. 「月刊メコン通信」の今後
これまで「月刊メコン通信」の機能について、具体的な事例とともにみてきたが、読者の評価に関しては一様ではないことは当然のことである。筆者が限られた時間で耳にしたところでは、むろん批判的な意見もある。そもそものルーツがカタログ機能を持ち合わせていたから当然のことであるが、紙面をみると、自身の紹介・広告が非常に多い割合を占めている。店の商売道具としてみるもの、自意識が強すぎると見るもの、国際電話会社との協力を妬む声なども聞いた。ニュースは月刊で、日常的に新しい情報に接しているものからは、古さや抜粋記事の多さを指摘する声もあった。こうした声に対処しようにも、編成内容の充実は組織的な体力が求められ、産業規模の小さい「メコンセンター」には限界がある。
この雑誌の文章は古い文体で書かれていることが多いという。ミン氏は辞書の編纂を行うなど言語研究家の一面があるが、紙面には現在のベトナムではあまり使わない漢越語が多用されており、若者には1970年以前のベトナムの言葉を引き継いでいるように写るといった声も聞く。日系移民の新聞で報告されているように、古い文体が一世と同世代で同時代感覚につながり、ひいては読者確保の戦略となるような事例と共通しているかどうか、それはまだ分らない。一方では、こうした文体の紙面には、「芸能人のニュース」が掲載されて、若者の情報源として利用されているのである。
紙面や編成・編集の変化と現状は、在日ベトナム人のエスニック・コミュニティーの発展や変化とリンクして考えていく必要があろうが、総合紙としてはいまだ方向が定まっているとはいえない。ベトナム語エスニック・メディアは生活経験も環境も言語能力もさまざまに異なる在日ベトナム人社会を前にしている。こ例えば、田房は呼び寄せなどによる家族関係の再構築が、現在のインドシナ難民たちの「難民性」を変容させたことを論じているが(田房、1997)、時代の変化は直線的な世代の変化には決して結びついていないのである。この雑誌がどのように変化し、そして受け止められていくのだろうか。それはこれからの課題である。
3. ジャオ・ルー/交流 -ある留学生向けメディアの挫折経験-
町村は「エスニック・メディア成立の様子をサーベイ」することから、エスニック・メディアの歴史的変遷を分析している。分類されるエスニック・メディアの一つに「留学生・知識人によるメディア」がある。町村は戦前からの歴史を踏まえ、アジア系外国人の手による自主的なメディア形成が、留学生や知識人という層から始まったことを指摘している。その理由として「留学生・知識人は、表現能力やコンピューターなどの制作能力ゆえに、外国人メディア制作の中心にいることが多い」と述べている(町村、1992)。
本節で紹介する「交流」は、上記の分類にそのままあてはまる「留学生・知識人によるメディア」である。しかし、残念ながら「交流」は現在、廃刊中である。本節では「交流」の廃刊の経緯について概観するなかで、エスニック・メディアの対面するいくつかの問題について明らかにしてゆきたい。なお筆者は「交流」の当時の編集人A氏にインタビューを行っている(13)。
「交流」は新聞の形式をとるエスニック・メディアであった。ベトナム人留学生によるベトナム人留学生のためのメディアで、1995年に発刊されている。
白水の「主要エスニック・メディアのダイレクトリー」には「交流」の情報が掲載されている。参考までに抜粋しておきたい(白水、1996)。
言語は日本語とベトナム語。1995年5月発刊。発行社は「ニューコム(株)」で、編集人は二人。月刊で月に2000部を発行。価格は200円で、郵送と書店依託で販売。発行目的は「在日ベトナム人の人々に対し、日本に関する幅広い情報提供。日本社会の人々に対してのベトナムの経済・ビジネスを中心とする情報提供。双方のビジネス・チャンスおよび人的交流の促進」。
このダイレクトリーに挙げられている編集人は、一人は「ニューコム(株)」の代表で、もう一人がベトナム人留学生だ。発刊目的を読むとビジネス色が強いイメージがあり、この点は若干の違和感を感じるが、おおむね筆者のインタビューと合致した資料である。
そもそもの発行のきっかけは、ベトナム人留学生の友人3人が台湾人の経営する新聞社に招かれて、新聞発行を依頼されたことに始まる。この新聞社が「ニューコム(株)」である。
「ニューコム(株)」は、華人向けエスニック・メディアを中心に、タイ語やマレー語など多言語のエスニック・メディアを発行している日本のエスニック・メディア産業の大手だ。このラインナップにベトナム語を加え、そのためにベトナム語と日本語に堪能な留学生をスタッフとして迎えることは、アジア圏の言語を中心としたエスニック・メディアを多数発行している「ニューコム(株)」の経営戦略としてはごく自然なことであろう。ただベトナム人留学生の手による「自主的なメディア形成」という点は留保しなくてはならない。
こうしてベトナム人留学生が外注スタッフとして新聞編集に携わることになる。このベトナム人留学生は「ニューコム(株)」のもとで働いたというわけではない。印刷に関わる経費や広告などの経営面を「ニューコム(株)」が担うという形であったという。A氏は「作ったときはがんばった。新聞を作ることはおもしろいことだった。ただアルバイト感覚だった」という。でき上がった新聞はA3サイズのタブロイド6枚刷りで、ベトナム語が4ページ、日本語が2ページのものであった。
新聞の内容は、主に「留学生のための情報を」という目的にあったものを編集していたそうだ。「ニューコム(株)」からも、留学生向けの新聞を作りたいと言われていたという。
「交流」のベトナム語の記事は、ベトナムからのニュースや日本の出来事、留学生向けのお知らせ、ベトナムの詩や短編小説、雑学などが中心であった。ニュースなどはベトナムの新聞を用いた。また日本の出来事では大事件などをベトナム語に翻訳して伝えた。当時、「在日ベトナム人留学生会」が発足したこともあって、留学生向けのお知らせを掲載していた。日本語の記事は日本人向けのもので、ベトナム在住の「ニューコム(株)」の特派員的な役割の日本人が書いていた。日本語でのベトナム紹介のほか、簡単なベトナム語講座などの異文化理解のための記事もあった。
新聞記事の量からみても、「交流」は留学生向けの新聞という位置づけが強いようである。「ニューコム(株)」から編集方針について、「留学生向け」といったこと以外には特に示されたり指示を受けたりすることはなかったという。「最初は楽しんで作っていた」という言葉どおり、自由に編集作業に臨んでいたようである。
「交流」は月刊であったので、比較的大きく取り上げられたニュースなどを中心に抜粋していたという。こうしたベトナムの新聞の購入など資料収集は、自費で持ち出しで行っていたので大変だったそうだ。留学生会の発足と新聞の発刊が時期を合わせたため、留学生向けのお知らせに好機ではあったが、月刊であるために時期が合わないため難しいこともあったという。編集方針を自分で決め、企画を考案することは苦労の種であったようだ。なによりも、自身の生活の中心は学生であり、アルバイトとしてやっていることで、取材する時間もないということが苦労の中心であった。編集に携わった3人はこれまで新聞を作った経験がなく、原稿を作る苦労は大きなものであったという。A氏は印刷以外はすべて持ち帰って行い、レイアウトまで仕上げたという。当時はコンピューターの性能も今ほど進んでおらず、ベトナム語のフォントで印刷することも長い時間がかかり、一苦労だったそうだ。
「交流」の収入源は主に国際電話会社「日本テレコム」の広告であった。主な読者は留学生であり、そのために大学や日本語学校に新聞を置いていたという。新聞は名目上は有料であったが、実際はほぼフリーペーパーとして流通したようだ。しかし、この流通の面が「交流」の大きな問題であった。
「ニューコム(株)」は新聞の印刷・発行までを行うが、流通と営業に関しては留学生にまかされていたという。A氏は「とにかく記事を書くのが大変で、徹夜の連続だった。やっと記事が出来上がったときには、もうその新聞を売りに行ったり配りにいったりする体力なんてなかった」「新聞を持って営業するのも学生だから照れてしまい、だんだんやらなくなる」と言う。しかし新聞は毎月3000から5000部が刷られていたのである。郵送で50人ほどの知り合いに送っていたが、むろんこれで間に合うはずもなく、新聞を作った後には読まれない新聞が山積みになっていたという。それでも徹夜を続けて学業の合間に仕上がった新聞は11号を数えた。「交流」は一年たらずで廃刊となった。
A氏は「ちらっと見たことがある人はいるかもしれないが、ほとんどの人はこの新聞のことを知らないだとろう」という。「振り返ってみると、3人の留学生は語学や理学を専攻する学生で、真面目ではあったが、華やかさに欠けた」とも言っている。今でもときどき「ニューコム(株)」からは、今でももう一度作らないか、という誘いが来るという。今の時代は、機械の性能も上がり、取材もしやすく、よりよい新聞ができるだろう、と考えているが、A氏は現在は学業に集中することにしているという。
「交流」という小さな新聞の挫折経験が示しているように、エスニック・メディアとは極めて危うい経営基盤のもとで成り立っている。多くのエスニック・メディアを発行する「ニューコム(株)」のような企業のサポートがありながらも、流通ルートの確保と提供は決して容易ではなかった。エスニック集団が異なれば、またコミュニケーション・ネットワークも異なり、必ずしも少数派メディア同士が補完しあえない部分もあるからである。もしも「交流」が成功していたならば、エスニック・ビジネスが異なるエスニシティーや異なる社会的立場の集団間を結び付ける機能や、そのなかでのエスニック・メディアの文化的な多元性に着目したりできるのであろうが、この点は現段階ではベトナム語のエスニック・メディアを含めることはできそうにない。
在日のベトナム人留学生は、現在は増加傾向にあるが、それでも留学生のなかでは決して数が多いわけではない。少数派であれば、人材の確保も容易ではない。そのようななかで、「交流」の編集の3人の留学生の本業は学生であり、ジャーナリストとしては素人の域をでなかったかもしれない。実際、多くの少数派のメディアがこうして素人の手になるものである。しかし、生まれながらのジャーナリストがいるわけではなく、ジャーナリストになるのである。11号まで必至に記事を書き続けた留学生は十分にジャーナリストであるといえよう。エスニック・メディアにある素人性の問題は、書き手や「送り手」としての立場、つまり素人である自身が書かなければならないという所属する集団の少数性にあるのではなく、流通を目指した時に実際に目の前に広がる、専門化も細分化もされていない現実空間の途方もない広さと、そのなかでの少数性にあるのである。
「交流」の挫折経験は、エスニック・メディアが現実的に直面する問題なのである。
4. フン・ヴ・ロイ・チュアとティエン・ヴォン・クエ・フン/故郷の響き声
「教会」とエスニック・メディア-
町村は「既存のマスメディアのルートにあまり依存できない外国人を中心に、情報バザールとでもいうべき空間が、あちこちに姿を現してきた」という。町村はこの「情報バザール」に挙げられる事例として、「レンタル・ビデオ屋、食料品の物産店、レストラン・食堂、パブ・スナック、教会、公園など」を紹介している(町村、1993)。すでに「月刊メコン通信」の分析でみてきたように、「食料品の物産店」はベトナム語エスニック・メディアにとって重要な「情報バザール」であり、雑誌は「レストラン・食堂」をメディアのルートとして活用している。ベトナム語エスニック・メディアにとって、もう一つ重要な「情報バザール」としての「メディアのルート」がある。それは「教会」である。
1999年のクリスマスの朝日新聞の記事に「故郷の言葉に心安らぐ」という記事があった(14)。在日フィリピン人が集まる四ッ谷の「聖イグナチオ教会」のクリスマスイブの模様だ。同郷のもの同士が「心のよりどころを求めて」教会に集まる場面をルポし、「教会は神に祈る場であり、故郷のにおいにふれる場でもある」という言葉で締めくくられている。1999年8月から月に一度、毎月第一日曜の昼間には、この「聖イグナチオ教会」でもベトナム語のミサも開かれるようになった。記事で描かれるのは、教会周囲の郷土品の露天や教会での生活相談、同国の主婦同士で話す楽しみなどの場面だが、在日ベトナム人の場合においても同様である。宗教は在日外国人のコミュニティー形成に大きな役割を果たしているのである(イシ 1995、樋口 1998など)。
カトリックの「教会」で多言語のミサが行われるようになってから、「教会」は信仰の場であるとともに、ソーシャル・ワークの場としても大きな機能を果たすようになってきた。筆者(田村ら、1998)は日系の南米人の利用する教会を取材し、地方都市の「教会」の活動の実践的な機能について主に言語的な観点から分析した。(1)「教会」が信仰という場からコミュニティーの場としての広がっていること。(2)「教会」がソーシャル・ワークを通じて在日外国人との関わりを社会に開かれたものとして深めていること。(3)「教会」が翻訳者としての役割を持ち、言葉が不自由で日本における社会生活に踏み込めない在日外国人の社会参加を助長すること。(4)「教会」が海を越えて生活基盤を持ち合わせる在日外国人の価値の葛藤に対する適応を促進していること。上記の4点である。
こうした「教会」の機能は、これまで論じられてきたエスニック・メディアの機能と、極めて類似したものであるといえないだろうか。ベトナム語エスニック・メディアにはカトリックの「教会」の関係者が発行しているものがある。これらのエスニック・メディアは「教会」の活動と相互補完的に機能しているのである。そこで本節では、在日ベトナム人の「教会」活動の一つとして発行されているエスニック・メディアを取り上げて、その意義について論考する(15)。
4-1. 「フン・ヴ・ロイ・チュア(意味:祈りの言葉に忠実に)」の製作風景
「フン・ヴ・ロイ・チュア」というタイトルはやや日本語にしにくい言葉であるが、あえて翻訳するなら「祈りの言葉に忠実に」となるだろうか。月刊で発行されている雑誌の形態のこのエスニック・メディアには、日本語タイトルはつけられていない。内容もすべてベトナム語で書かれている。当時、筆者は数タイトルを持ち合わせているだけだった。電話で問い合わせをしたところ、編集責任者の方から雑誌の内容について「内容はですね、カトリック関係です。福音とかミサの案内、ほかに、在日ベトナム人の連絡とかです。宗教活動ですね」という説明を受けた。その後、編集部を訪れ、製作の現場を取材した(16)。まずはこうした様子から「フン・ヴ・ロイ・チュア」について紹介したい。
「フン・ヴ・ロイ・チュア」は「Giao Doan Cong Giao Vietn Nam tai Nhat/在日ベトナム人カトリック共同体」が発行している機関誌である。東京小岩に編集部があり、雑誌の製作は毎月最終週の土日にかけて行われている。東京ではベトナム語のよるカトリック教会のミサが月始めの日曜に行われるので、ミサにあわせて雑誌を配付するため、この日に製作作業が行われるのだ。
製作作業の現場は、編集室とか出版社とかいった雰囲気はまるでない。筆者が住所を探しながら訪れた場所は、ごく普通のマンションの一室であった。夏の暑い日であったが、部屋の中は締めきり真際のイベントのように、熱気が込み上げていた。
6畳間ほどの部屋を2室つなげ、長テーブルを二台添え置き、その上には雑誌の原稿がページごとに並ぶ。左右両側から流れ作業で原稿を重ねてゆき、一まとめにした後は、手作業用機会で表紙をつけてホチキス止めをする。こうして、雑誌が束ねられてゆく。作業をしているのは男女合わせて十数名ほどの若者だ。
部屋にはノート型のパソコンとデスクトップ型のコンピューターが置いてある。コンピューターにはレイアウトされた雑誌の画面が写っている。すぐ下の汎用のカラープリンターでは、表紙がプリントアウトされている。カラー上質紙に数色のデザインがされているが、同系色ごとに数回に分けてプリントしている。部屋にはゼロックス風の印刷機が置いてあり、その場で原稿が印刷されている。部屋には印刷用の紙財が山積みとなっている。
このように、編集から製版・印刷、壮丁まで、印刷所や出版者を介することなく、すべて部屋の一室で行われている。カトリックの雑誌製作ではあるが、この部屋に特に宗教的な雰囲気があるわけではない。部屋には小さな宗教画が飾られているが、それ以外はごく日常的なすまいであり、こうして月末の土日だけが雑誌製作の編集室になるのだ。
「フン・ヴ・ロイ・チュア」は東京の「教会」で配付するだけではなく、全国の読者やカトリック教会、各種団体、諸外国の読者やカトリック関係団体に郵送される。住所が直接印刷された封筒に個人宛は1-2部、団体宛には5-30部ほど郵送する。海外の団体の郵送先は、イタリアやフランス、オーストラリア、アメリカなどだ。国内の郵送範囲は全国規模で広範囲に広がっている。筆者のみた限りであるが、配付地域は、群馬県伊勢崎や兵庫県神戸周辺、藤沢大和エリアなど在日ベトナム人が多く在住する場所や、秋田や広島、長崎など「教会」や支援施設のある場所が多いようであった。「藤沢カトリック教会」のように、在日ベトナム人の多く集まる場所では20-60部を発送している。
製作作業が一通り終わるとベトナム料理の食事が始まった。楽しい会話がはずむこの部屋には、モノ作りの充実感に溢れている。十数名の製作スタッフはすべて在日ベトナム人であったが、途中、地元亀有の「教会」の青年支部でボランティアをしているという日本人の若者が現れた。「教会」でイベントを企画中なのだそうで、その計画を雑誌製作のスタッフと話し合っている。亀有の「教会」は手続き等が楽で、使いやすい教会なのだという。この若者は、この部屋に来るのが楽しく、ここでベトナム料理を食べるのが楽しみなのだそうだ。製作スタッフのなかには遠い家から通ってくるものもいる。夫婦でくるものもいる。雑誌製作の空間は、しばし日常から離れ、仲間同士が集まり、気軽に話しをできる、そんな空間だ。こうしたつきあいは「教会」利用のための面倒な手続きを簡略にさせるネットワークにもなる。メディア製作という過程にある見えない機能の側面である。
「フン・ヴ・ロイ・チュア」はカトリックの教義を中心とした編成になっている。ベトナム語という日本における少数派の言語が用いられている点をのぞけば、いわゆる既存のエスニック・メディアとは性格を異にするものであろう。しかし、月に一度の同胞が集まるミサの前に、同じ故郷を持つもの同士が一つの目的に一致団結する姿をみれば、こうした雑誌には明らかにエスニシティの創出の機能があることが理解できるであろう。ミサという教会活動と補完的にこの雑誌はエスニック・メディアとしての性格を持ち合わせるのである。
4-2. 「フン・ヴ・ロイ・チュア」の現状
「フン・ヴ・ロイ・チュア」は月刊の雑誌である。1983年に発刊され、取材日現在で184号まで発刊されており、エスニック・メディアとしての歴史は16年と長い。多くのニューカマー外国人向けエスニック・メディアが1985年以降に発刊されたことを踏まえると、やはりベトナム語エスニック・メディアはほかのアジア系言語のエスニック・メディアとは歴史を異にするようである。
在日ベトナム人は、いわゆる「出稼ぎ」労働者として来日したものとは異なり、その多くは難民として祖国を離れたものと、その呼び寄せ家族である。日本への難民来航の最初は1975年5月で、サイゴン陥落の直後からベトナム人の難民の姿がみられた。しかし、当時の日本は難民条約へ批准しておらず、多くは第三国への移住を条件に入国が許可されたのみだった。それから後も日本船に助けあげられた難民は増えていた。正式な受け入れが決まるまでは、主に宗教団体が施設を提供して、難民の保護を行っていたのである。こうした宗教施設はむろん「教会」だけではない。ただ、筆者が知る限りでも、こうした背景で、教義に関わらず宗教施設で生活しあるいは宗教施設で育ち、ごく自然に「教会」に接するものも少なくない。こうした難民であるという在日ベトナム人の独特の背景は、「フン・ヴ・ロイ・チュア」のような息の長いエスニック・メディアの歴史を説明する一つの要素であろう。
発行部数は700部で、8割が郵送で配付される。残りの3割はスタッフが通う都内の教会で配付している。雑誌は無料だ。雑誌製作のための経費は教会での寄付で成り立っている。
「フン・ヴ・ロイ・チュア」もほぼ一人で編集作業が行われているが、記事は主にインターネットの電子メールなどで、日本全国の「教会」の神父などから送られくるものであるという。基本的な編集方針は「在日ベトナム人カトリック共同体」のベトナム人神父らが決定しているが、その編集方針は「カトリックの教えに基づいたものにする」程度である。編集スタッフは言う。
これといった団体があるわけではないが、神父などを中心に、ベトナム人のカトリック信者が教会に集る。読者は彼らが中心で、団体といえば団体だ。国内で1000人ぐらいの信者がいると思う。
「在日ベトナム人カトリック共同体」といっても、いわゆる明確な組織があるわけではない。その意味で雑誌の発行は教会活動の一つであり、その情報提供活動はソーシャルワークを通じた「共同体」の創出に寄与するのである。
「フン・ヴ・ロイ・チュア」の紙面構成はB5サイズで80ページあまりだ。その記事内容についてみていきたい。
記事の三分の一を占めているのは、日付け入りのミサの案内とともに、当日のミサの進行にあわせた福音の言葉である。ミサでは通常、福音の言葉を現実の生活の文脈に照らし合わせながら、神父が理解しやすい形で伝導する。記事は事前にミサの内容を知らせ、ミサの理解を深める。これは直接的な雑誌の意義であるが、「フン・ヴ・ロイ・チュア」の存在意義はもう一つの間接的な意義であろう。当日にミサに行けないものは、記事を通じて内容を知ることができるのである。
信仰深いカトリック信者は毎週日曜日には近隣の「教会」に通うものである。しかし、たしかにベトナム語のミサは毎週行われているのであるが、それは日本全国で散らばった地域の「教会」でのことであるのだ。地域に生活基盤を持ち日常生活をおくるものにとって、全国の「教会」を巡ることなどとうてい不可能なことである。教義の言葉のように極めて抽象度の高い言葉を理解する上で、母国語によるミサや同国出身の神父の存在が重要であることは当然のことである。文化的背景や現在の生活環境を共有するなかで伝わり理解できる信仰の言葉もあろう。実際、東京都下で開かれているベトナム語のミサは月に一度であり、そのために遠く神奈川や埼玉から訪ねてくるものもいる。だが地方に在住するものにとっては、通い切れないほど遠い場所で開かれている場合もある。
この雑誌はベトナム語のミサに参加したいものに信仰の場を提供しているのである。日本という異国で暮らし、少数派の言語を母国語とするために、身近に得られない信仰の場を提供するのである。本稿では実証的にこの点を明らかにすることはできないし、あくまで仮説の枠を出るものではない。ただ、このように見てゆくと「フン・ヴ・ロイ・チュア」は宗教活動の補助的な位置付けと限定的にとらえるよりも、むしろ従来のエスニック・メディアの言語的性格を強めたものであるように写る。
その他の内容は、「教会」に関わるニュースや、世界のカトリックに関するニュース、婚姻や死亡の記事、月の行事の案内、神父の連絡先などから構成されている。
月に一度の「教会」でのミサは、同じ故郷と同じ言語、そして異郷で暮らし悩みを分け合う同胞が、日常の日本での仕事や家庭などから離れて、一緒に過ごすことができる貴重な時間である。こうした人と人とのネットワークこそが、日常生活を送る上での情報交換などについても重要なメディアである。そうしたネットワークの維持する上で、こうした「集まり」の場所や時間、イベントなどの情報が、恒常的に提供される。人と人をつなぐ場の情報提供は、この雑誌の重要な役割であろう。むろん宗教の教義の共通認識を深め、こうしたコミュニティーの心理的維持という団体や参加者にとっての役割(Lynd、1929)は決して忘れることはできない。
4-3. 「ティエン・ヴォン・クエ・フン/故郷の響き声」とソーシャルワーク
「フン・ヴ・ロイ・チュア」には在日ベトナム人神父の連絡先が書かれている。現在、日本におけるベトナム人のカトリック神父は9名だ。そのなかの一人、ファム・ディン・ソン(Pham Dim Son)神父が発行するベトナム語と日本語のバイリンガル雑誌がある。「故郷の響き声/ティエン・ヴォン・クエ・フン」だ。本稿の冒頭でも述べたとおり「故郷の響き声」は、ベトナム語を忘れた子供たちと、日本語がなかなか修得できない親たちとのコミュニケーション・ギャップを埋めることを目的として発刊された雑誌だ。ベトナム語エスニック・メディアのなかでは近年に発刊された雑誌の一つでもある。移民社会が世代間に渡るとき、エスニック・メディアは生まれ来る移民の二世以降の世代を対象とすることで、当該移民社会の主流言語を取り入れていく傾向がある。このような傾向は、一つのメディアの歴史のなかで編成面の変化として見られることもあれば、こうした移民社会の過渡期に生まれたメディアとしてみられる場合もある。「故郷の響き声」はその後者にあたるものだ。
日本における在日ベトナム人社会の歴史といっても一様ではないが、特に1975年以降、難民として来日したベトナム人たちの歴史はすでに四半世紀を迎える。本稿でこの歴史を振り返る余裕はないが、「故郷の響き声」を発行するファム・ディン・ソン神父の経験から在日ベトナム社会の変化の一端を理解し、このバイリンガルのエスニック・メディアが生まれた経緯について考察していきたい(17)。なお「故郷の響き声」発刊の目的や内容、日本語ページの意義、製作の現場などについては森口が、ソン氏のインタビューとともに詳しく紹介している。そちらを参照されたい(森口、1997)。また神戸におけるベトナム語による情報提供活動と放送については、叶堂ら(叶堂ら 1996)の調査に詳しい。
ソン氏は1981年に小舟でベトナムを出て来日した。17才のときである。大村難民センターを出て、姫路で3ケ月の日本語教育を受け、東京で職業を探していた。3ケ月の日本語教育では言葉はまだほとんど話せなかったという。大学へ通いたい一心で東京で職を探していたが、山梨で彫金の仕事を始めた。
「勤めた頃は楽しかった、一番最初は。言葉わからなかった頃、楽しかった」とソン神父はいう。しかし、次第に日本語が理解できるようになってからというもの、言葉の差別や給与面の差別に気付きはじめたという。「(言葉が)わかっているために友達を失っていった」。このように、言葉が理解できるがためのトラブルも多かったという。
職を変えつつ、言葉の上達を目指して夜間高校に通い始めたが、仕事との両立が難しく中退し、予備校に通いながら、大学進学を目指した。ベトナムでは高校を卒業していたソン氏は上智大学神学部へ合格した。大学在学中に交通事故にあった。入院先の病院でやさしさに触れあい、自身が受けてきた差別体験と交叉したとき、ソン氏はカトリックの司祭になる決心をした。神奈川県横浜磯子、静岡県静岡市の教会を経て、海外研修に赴き、現在は神奈川県川崎市の教会で神父を務めている。
ソン氏は静岡県静岡市の教会で司祭を務めていた頃は難民定住委員会のメンバーであった。そのときに阪神淡路大震災が起き、兵庫県神戸市長田区の「カトリック鷹取教会」で被災者支援を始めた。この時の経験が「故郷の響き声」の製作の大きな原動力となっているという。
在日ベトナム人が避難していた学校を訪ねたソン神父は、言葉が不自由なゆえに、避難所で肩身が狭い思いをし、日本人との誤解でコミュニケーションがうまくいかなかったベトナム人と出会う。神戸在住のベトナム人にソン神父の顔は知られていなかったが、神父になったときから知られた名前であったという。こうして言葉が分からず、情報が伝わらないベトナム人のためのボランティア活動を行うことになった。長田という地域に根をおろしたベトナム人への支援活動である。
多くの在日ベトナム人たちの悩みを聞いたソン神父は、震災時の在日ベトナム人の問題のなかで、家の問題、特に家庭における親子関係は大きいという。「地震が起こって初めて親子がいる時間がすごく長くなった」が、同時にこれは「わが子と言葉通じない」時間でもあった。自分のことを日本人だというベトナム人の子供とも出会う。ソン神父は一世だが、こうした二世の気持ちがよく分かるという。二世への理解の気持ちと連続する、雑誌発刊の直接の動機となる気持ちについては、ソン神父の生の声で伝えよう。やや長くなるが以下にインタビューから直接、引用する。
17才から(ベトナムを)出きて、ずっと日本語しか勉強してきていません。(ベトナム人の)友達と(日本で働き始めて)最初に3人で会社へ行ったときに、なかなか日本語が分かりませんでした。私たちは「今から人生をこの地で生活していかなければならない。ならば、日本語が上手くないと困るから、3人分かれよう」と、それぞれのアパート借りました。お互いに会うときには、できるだけで日本語話すようにしたんです......(中略).......
あるとき私はベトナム人と出会いました。そして気付くと、ずっと日本語を話していました。その人はベトナム語です。相手はずっと私の顔を見て笑っていました。なぜ私の顔みて笑ってるのだろうと思ったとき、ふいに気づいたら、私は日本語を話していたのです。自分はベトナム語を話しているつもりでした。そのときは悲しいし、むなしいですよ。......(中略).......
私は二世の子供達をみると分かってないな、と思います。すごくこうなんというか......(私は)神戸にいて、子供達の関係のなかで、これはちょっとまずいなと思います。これが大きな動機となって、故郷の響き声を発行することになりました。
少しでもいいのです。言葉が分からないなら、どうすればいいのでしょう。やはり共通理解があれば、多少は心が寄っていくのではないかと思います。共通理解とはなんでしょう。それは文化しかないでしょう。親たちは、ベトナムの文化を知っています。日本の文化もゼロではありません。多少はあります。子供達はベトナム文化は......。だからベトナム文化を少しでも知っていてほしい。それで日本語で翻訳したのです。(語尾等改編は筆者)
以上、「教会」を基盤とした二つのベトナム語エスニック・メディアについて分析してきた。両者は組織面でも編成面でも性格を異にするが、「教会」の活動と相互補完的に機能しているエスニック・メディアという意味では共通の特徴があるといえよう。ソーシャル・ワークにおけるカトリック的な方法と技術は、基本概念と世俗観念を統合し、信仰的要因の表出は生活の建設的な過程で利用される(コース、1989)。メディアとして表出されたテクストの背景には、こうしたカトリックとソーシャルワークとの統合がある。上記の二紙の性格、つまり方法と技術の違いは、こうした観点から理解されると同時に、宗教的実践としての共通項を持つのである。
こうした点をふまえた上で、メディアの利用と満足という視点でみれば、宗教的意義とは別の側面でのメディアの利用があるという点でも共通項がある。さらに、上記の二紙の紹介の社会学的意義を付け加えておくとすれば、それはソーシャルワーカーの社会学への貢献であろう。マッキーバーはソーシャルワーカーが、(1)社会的状況の類型の分類を支援し、(2)その任務として集団生活過程を観察・把握し、(3)ニーズの把握や、矯正・補完・リハビリテーションなどを通じて社会的因果関係に非価値をあてる、という3点からソーシャルワーカーと社会学者の共同の意義を挙げている(マッキーバー、1988)。「教会」を基盤としたエスニック・メディアの活動と内容の分析が、現在の在日ベトナム人社会の理解に意義があるのは、こうした点においてであろう。
日本が初めてベトナム難民を受け入れた1978年前後の雑誌を眺めてみた。「大宅壮一文庫」の目録では、「インドシナ難民」の項目でベトナム人を扱った記事は、1978年あたりを中心に大きな盛り上がりを見せている。その数は300件から400件にのぼる。中にはいささかセンセーショナルな記事も散見され、「ボートピープル」の洋上での苦労などを興味本位で扱った記事が見られる。その一方では、難民条約への批准について、賛成・反対を含め、政府の難民対策についての論説や、難民を保護した団体の紹介など、国内の国際化をめぐる行政を個人としての難民の紹介などと合わせて書かれた記事も見受けれる。国内では、難民の受け入れのための運動や世論が盛り上がり、1970年代後半は「日本の国際化」が盛んに議論されていた時期である。こうした出来事や報道は、日本の入国管理行政の変化に極めて大きな意味を持ち、また1980年代後半の「人の国際化」「内なる国際化」といった人の移動をめぐる社会環境の変化とその報道の初期の局面であったといえよう。
1980年代後半、ベトナム国内において、社会主義経済に経済の自由化運動である「ドイモイ」が導入された。この時期にも難民の来日が相次いでいる。当時の雑誌記事を見ると、1989年を山場に盛り上がり、その記事数は500件にも上る。しかし、1980年代後半の雑誌記事は、極めてセンセーショナルに難民を扱っている。そのタイトル「10年以上もたってなお/黄金の国ニッポンを夢見て/ニセの難民/中国系とベトナム系のトラブル/海賊とサメの恐怖を越えて」などを見ると分かる通り、難民を「ボートピープル」という洋上の人として一面的に捉える姿勢であり、こうしたメディア・イメージに貫かれている姿勢は、徹底した他者感覚である。ここには始まりつつある「人の国際化」に直面した日本の社会心理や「外国人」観の一端をみてとることができるだろう。
これまで紹介してきたエスニック・メディアは、作り手である在日ベトナム人の姿や在日ベトナム人社会の現状が反映している主体的な自己表現の空間である。母国語のメディアを通じて、自身のコミュニティーに参加し、エスニシティの空間を編成していく。こうした参加は近代社会の成立基盤の予件として議論され、メディア論としてはアクセス権の議論として発展する。ベトナム語エスニック・メディアを通じたエスニシティの編成とは、市民としての在日ベトナム人の主体的な参加や私的自立の上に成り立ったものであるのだ。
紙面の都合から、次号に紹介を譲ることになるが、こうした市民性に着目することで理解の深まるベトナム語エスニック・メディアが二つある。「グエット・サン・ヒエップ・ホイ(語意:月刊協会)」と「Ban Tin Than Huu(語意:親善ニュース)」の二紙である。「グエット・サン・ヒエップ・ホイ」は「Hiep Hoi Nguoi Viet tai Nhat/在日ベトナム人協会」という在日ベトナム人のための組織団体が発行する月刊の雑誌だ。政治/経済/時事のニュースから趣味や生活に渡るまで幅広い内容を扱う有料の総合誌である。表紙にはベトナム旧政権の国旗が描かれ、やや激しい論調で反共の主張がある政治色の強い雑誌でもある。また、「Ban Tin Than Huu」は「Hoi Than Huu Tuong Tro Viet Nam/かながわベトナム親善協会」が発行する隔月刊のタブロイド新聞だ。発行者によると「言葉が分らない難民のために、生活情報などを提供するのが目的」に発行されている。神奈川地区に在住するベトナム人むけに無料で配付されている。ボランティア活動の一貫として発行されている新聞ではあるが、紙面には政治的な主張が散見される。こうした新聞・雑誌の現状と歴史からは、在日ベトナム人の独特の境遇と日本における市民社会形成過程が理解できよう。
1990年代後半になって増加してきたベトナム人研修生向けのニューズレターがある。「Noi Vong Tay/手と手」である。「手と手」は「国際労働運動研究協会」という労働省認可の社団法人が研修生向けに発行しているB4一枚の情報紙である。また、阪神大震災をきっかけに兵庫県神戸で外国人支援活動を行きた「神戸定住が異国人支援センター」が発行するニューズレター「Ban Tin KFC/KFCニュース」は、同団体の活動報告をベトナム語と日本語で行っている。こうしたホスト社会の情報提供活動として発行されたエスニック・メディアは、近年の日本の国際化をめぐる社会情勢と関わっているメディアである。
次号では、上記の四紙を、新たな市民社会の形成過程や共生といった国際化をめぐるキーワードとともに分析し、紹介してゆくことにする。