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テレビの「人種 (註1)」表現に関する内容分析研究の概観
〜 アメリカにおけるテレビの「黒人」登場人物像に
関する研究を中心に 〜

日吉昭彦(成城大学大学院/武蔵大学非常勤講師)

成城文藝
(成城大学文藝学部紀要)
第168号
1999年10月
p1-p36




1. はじめに

本稿は、テレビ・ドラマ(以下、ドラマ)やテレビ広告(以下、CM)における「民族的少数派」や「人種」に関する表現の研究のなかでも、数量化による内容分析の手法でそれらを分析する研究に着目し、主に1980年代までにアメリカで行われた調査報告を対象として、その調査結果および研究動向を概観するものである。本研究の目的は、上記の内容分析研究の概観から、テレビ番組の登場人物に対するステレオタイプ化の傾向について考察を行うことである。

1960年代末まで、アメリカのテレビ番組で「黒人」の登場人物が登場することは、まれなことであった。たとえ登場していたとしても、「黒人」登場人物の描写は、しばしば差別的で偏見的なものであった。「黒人」でないものが「黒人」を扮して演技していたり、主体性のない描写が目についた。また、特定のコンテクストのなかでばかり登場したり、特定の役割のみを担ったり、その描写の仕方には偏りがみられた。

1950年代以降で盛り上がりを見せていた公民権運動のなか、運動家や批評家たちは、こうしたメディア表現に対して厳しい批判の目を向けた(註2)。こうした描写を行い続けるマス・メディア産業に対しては、「品位のない表現の改善」および「民族的少数派のメディア産業への雇用」の要求を突き付けていた。

ところで、「黒人」登場人物の偏向的な表現に着目したのは、公民権運動の主役である「黒人」の運動家や批評家たちだけではなかった。マス・コミュニケーション研究者は、科学的な内容分析の手法に基づいて、メディア・ステレオタイピングの現状や変化を明らかにしてきた。当時、テレビは新聞やラジオに匹敵するほど、大衆の日常生活に浸透し、より接しやすく高い信頼性を持つ情報源となっていた。Head(1952, L-8)は「大衆文学にある非好意的なステレオタイプが偏見を広げて補強するという信念のもとで、さまざまなメディアにおける民族集団の描写は多大な関心が払われてきた」と述べている。内容分析研究において、「民族的少数派」の表現というテーマは、テレビというメディアが登場する以前から強く関心をもたれていた。またテレビが登場してからも、このテーマは引き続き内容分析研究の主要な位置を占めたのである。

その後、公民権運動の闘争の場面が生々しい映像とともに家庭に届いた。公民権運動がやや落ち着いた後は、ウーマンリブの運動が社会を席巻していた。「黒人」や「女性」の表現に代表される、メディアの偏った「少数派」の表現のあり方は、全国的に広がった運動を助長し、アメリカの社会秩序の不安定さにつながるという認識がもたれた。こうして、メディアの「少数派」表現の現状把握は国家単位の科学研究プロジェクトにもなった。

本稿では、さまざまな「黒人」批評や「少数派」表現の研究があるなかでも、マス・コミュニケーション研究における「民族的少数派」や「人種」の表現の研究を扱うことにする。また、対象とするのは内容分析による方法を用いた研究である。内容分析とはBerelson(1952)の定義によると「コミュニケーションの明示的内容の客観的、体系的および量的な記述の調査技術」で、体系的な順位づけと類型化を通じた量的指標の探索で、手続きを明示し、比較可能性を持ち合わせているものである(註3)。こうした方法で、アメリカのテレビ番組の登場人物について、時系列的に人数の量的推移を報告したり、登場人物の役割やその変化を報告してきたものが対象である。

日本では、アメリカの内容分析手法と同様の手法で国内のテレビ番組の「外国」要素を分析した調査研究が、1980年以降でしばしば行われている(註4)。個々の研究の背景はさまざまであるが、「国際化」という社会状況をあげているものが少なくない(註5)。こうした研究が積み重ねられた結果、約20年を経て一定の傾向が見られてきた。特徴的な傾向の一つは、「白人系」の登場人物ばかりが登場しがちであるという、偏りが見られることである。

日本のテレビの「外国」要素の研究方法は、アメリカの「民族的少数派」「人種」表現の内容分析研究と類似した方法を採用している。分析の仕方や分析の項目も類似したものである。Belelson(1952)の内容分析の定義にしたがえば、日米の社会環境や研究が行われた時代背景の違いを考慮しても、両者を比較検討する余地は十分にあると考えられる。こうした比較検討を行えば、具体的な対象を持つ個別の内容分析研究が提供する結果を、他の枠組みを持つ研究理論やさまざまな研究成果と照らし合わせて共有させることができる。表現の研究に関しては、「民族的少数派」や「人種」の表現、「外国人」の表現といった個別のテーマから、「人間」の表現の研究へと枠組みを広げることができるであろう。比較文化的な視点からメディア・ステレオタイピングに関する考察を行うことができると考えられる。

しかし、日本の「外国」要素の内容分析研究に、アメリカで豊富に行われている「民族的少数派」や「人種」の表現に関する内容分析研究の知見を応用したり比較するための、体系的な整理がこれまで行われてきたとは言いがたい。

そこで、アメリカにおけるテレビの「民族的少数派」や「人種」の表現に関する内容分析のなかでも数量化の方法で行われた研究を収集し検討した。その結果、研究の概観の分析を通じて、表現が変化する際のメディア・ステレオタイピングについて、ある程度は一般化した知見を導くことができたと考えられるのでここに報告する。なお紙面の都合から、本稿で扱うのは1980年代までの研究とする。



 2. 「民族的少数派」「人種」表現の内容分析研究の展開 

1970年代のアメリカでは、50年代以降の公民権運動の展開をふまえ、メディア表現に見られる偏見やステレオタイピングへの関心が高まり、多くの批判的な内容分析研究がなされている。アメリカにおける「黒人」表現は、社会的な構造変化とともに改善されていく傾向があったことが報告されている。

筆者(1999)は、これら「民族的少数派」や「人種」の表現の内容分析研究の潮流を、主に調査方法の観点から大きく5つの期間に分類した(註6)。本稿では、このうち第1期から第3期までの研究レビューを行う。第1期から第3期までの特徴の概略は以下の通りである。

第1の期間は1950年前半から60年代後半までで、「人種」表現に関する内容分析調査が行われ始めた時期である。数少ないながらも、1950年代前半から「民族的少数派」や「人種」の表現に関する内容分析調査は行われている。これら資料は、公民権運動期の各種人権団体の声明や、さまざまなメディア批評、およびそれに対応するメディア側の反論などの議論とともに、後に盛んになる「民族的少数派」や「人種」の表現に関する内容分析調査の問題意識を形成したといえる。ごく簡単に「黒人」登場人物が、登場しているか否かを調査したものがほとんどである。サンプルの大きさが漠然と示されるだけであったり、詳しい調査の方法が明らかでないものがあったり、調査研究目的ではなくテレビ視聴者向けの一般記事として報告されたものがあるなど、数量化による内容分析とは言い切れないものもある。しかし、先見的な着想や、表現の変化を論じる上での資料としてはたいへん貴重である。

第2の期間は1960年後半から70年代前半までで、第1の期間で形成された問題意識を背景に、数量化を通じた内容分析法に基づいた、体系的で科学的な手法によるアドホックな調査研究が行われている。この頃の内容分析研究は、「登場」そのものに関心を持ち、登場人物を「主役」か「補助的」かなどと分類し、役割の重要度を探る方法がよく用いられている。これらの研究は、1970年代で盛んに行われた調査と比較検討されている。このことから「民族的少数派」や「人種」の表現に関する内容分析を行う上での方法的な基礎となっている。調査項目や分類法が共通であることは内容分析の比較には欠かせないが、この時期に行われた調査の方法は後々まで継承されている。

第3の期間は1970年代前半から80年代前半までで、70年代を通じた内容分析研究が10年を経てまとまった知見が報告されており、数多くの内容分析研究の報告が見られる。「体系的な順位づけ、類型化を通じた量的指標、手続きの明示」を基礎として、比較研究を念頭においたものが多く、数年から数十年にわたる調査プロジェクトによる分析もある。また、数量化によって導かれた結果を、現実の人口構成と比較するという手法は、この時期の内容分析研究の特徴である。

この時期と重なるが、その後には、マスコミの影響理論などが大きな関心となり、メディアにおける「女性」表現、メディアの暴力表現、子供へのメディアの影響などの文脈で数多くの内容分析調査が行われている。こうした背景で、分析対象となる番組も、分析項目も多様化した。「民族的少数派」や「人種」の表現が報告されるとともに、社会的行動の表現や「人種」間相互作用の分析などより社会心理学的テーマへの着目と方法論の展開がみられている。本稿ではこれらについては触れないが、いずれ概観を行うつもりである(註7)

本稿では、ドラマとテレビ・コマーシャルを分析対象とした内容分析を扱う。しかし、各々の時期の内容分析の報告をみると、分析対象とされやすい番組に若干異なる傾向が見られる。それは、調査の方法とも関わりがあると思われる。ごく簡単な調査法が採用されている第1期の研究では、あるテレビ局の番組や一日のテレビなどが対象となり、番組による分類よりもテレビ全体を対象としている。登場そのものに関心を持つ第二期の研究では、ステレオタイプ的に「黒人」がよく登場するとされてきたコメディーや、公民権運動を通じた「黒人」の経済的市場への着目などの観点からテレビ・コマーシャルが分析の題材となった。「現実」を写し出すとされるドラマも、社会的現実の反映を示す題材として分析の題材となった。ここから、「黒人」像の表現をめぐる歴史の観点や、現実の社会における「黒人」の地位向上とそれをターゲットとするメディアの商業的志向の観点、番組内容の多様化のなかで注目された番組特性が持つ機能というメディア構造の観点から、分析対象が選ばれたといえる。第3期は、サンプリングの手法による比較をふまえた対象選択に議論が向けられているのが特徴であろう。その後も同様であるが、内容分析の方法論の展開とともに、子供へのテレビの影響と社会化に関する着目から、子供番組や土曜の朝の番組、子供向け番組に含まれたコマーシャルなどが対象となった。またテレビの暴力行動への影響の関心から、犯罪ドラマなども対象となった。つまり、子供や高齢者など、視聴する「受け手」と番組の関わりの観点から分析対象が選ばれたといえる。


 3. 分析対象となる調査事例について

調査事例の分析の前に、本稿で以下に紹介する調査の事例の対象について述べておきたい。

筆者はまず、アメリカにおいて1960年代から90年代にかけて発行された、いくつかのマス・コミュニケーション研究の論文雑誌を網羅的に概観し、内容分析の調査に関する論文を収集した(註8)。そして、そこで参照されている研究や資料を可能な範囲で収集した。さらに、筆者は1998年夏に、ワシントンD.C.にある「U.S. Commision on Civil Rights」事務所を尋ねて、聞き取りを行い、政府刊行物として発行された報告書を収集した。またアメリカ国立図書館のオンラインデータベースで「Black Study」「Contents Analysis」「Media/Portrayal/Minority/Ethnicity」などのキーワードで書籍・一般誌などを検索し、内容分析研究に関わる報告がなされているものを収集した。補足的に社会学、コミュニケーション論に関わる学術論文書誌目録や、マス・コミュニケーション論の文献目録によって確認を行った(註9)。本稿で紹介するものは、こうして集められたもののうち、主に「人種」表現に関して焦点をあてて行われた内容分析か、それに関して言及が行われている内容分析が中心である(註10)

このなかには、シンポジウムやコンファレンスで用いられた資料や報告書や、未刊行の学位論文、メディア産業が独自に行った調査報告・記事などが含まれているが、これらは今だ未収集なものが多く、本稿では断片的にしか紹介しきれていない。また、ある同じ調査によって得られた結果が、書籍となって報告されているものも扱っていないものがある。主に学術論文を中心に紹介したものと考えていただきたい。

以下、紹介と分析を行うが、紙面の都合上、以下のような形式をとる。本稿で扱う資料は巻末の「概観文献」の通りである。紹介の際に『「***」は**%であった』のような表現を行うが、「***」は調査の項目を表し、その項目は「概観文献」の通し番号につけた脚注のなかに整理されている。本文では、主に結果に焦点をあて、個別の調査の内容分析の対象や分析方法については脚注にまとめてある。


 4. 1960年代末までの研究事例 〜不在という問題意識の形成〜

1960年代末までに行われた内容分析研究はわずかである。わずかではあるが、後の研究では「黒人」登場人物や、あるいは「白人」以外の登場人物の表現の過小さを示す事例としてしばしば引用されている。

Head(1952, L-8)の調査はドラマを対象とした分析を行った。「白人」以外の登場人物は、サンプルとなった番組のうちの29.0%で登場し、全登場人物の11%であることが示された(1583人中175人)。「白人」以外の登場人物は必ずしも非好意的に描かれているわけではなかった。例えば「黒人」登場人物は56人中2人のみが「悪く」、4人のみが「思いやりのない」とものとして描かれていた。「白人」で「思いやりのない」とものとして描かれていたのは24.0%であるのに対し、「白人」以外では21%となるなど、必ずしも「白人」と比較して非好意的に描かれているわけではなかった。しかし、登場人物の社会階級を「上/中/下」で分類したところ、そのの比率(%)は、16:36:9(白人)/3:13:23(非白人)となっており、「白人」はより高い階級で、「白人」以外のものはより低く描かれていた。職業に関して「白人」以外の登場人物は、家庭内での仕事やサービスワークが中心で、ホワイトカラーの仕事にはめったに就いていなかった。

Smythe(1954, L-26)は、1950年代初頭に行われた3つのテレビの内容分析調査のプロジェクトをレビューした。この論文の主な目的は、番組種目別分類の方法論と結果から放送の「現実性」を探ることであるが、登場人物に関するミクロな分析も行われている。1週間のドラマ番組を分析した結果、ドラマの登場人物は75.0%近くが「白人」登場人物であった。「女性」よりも「男性」のほうがその傾向は顕著であった。ヨーロッパ出身の登場人物が過剰に描かれており(全登場人物中の14.0%)、アジア/アフリカ出身のものはほとんど描かれていなかった。「黒人」登場人物は全登場人物中の2.0%であったことが示された。

これらのテレビのモニター調査を続けて、Smythe(1954, L-26)は、番組構成という観点から、テレビの非現実性を明らかにした。商業主義的な番組種目別分類の偏りという一面と、テレビのさまざまな民族集団への無関心という一面が交叉するなかで、「民族的少数派」に対するメディア・ステレオタイピングという表現の研究は始まったと言える。

以下に、テレビにおける「少数派」の不在を取り上げたいくつかの事例をあげてみたい。Wright(1959, L-33)の調査では、1週間のテレビ視聴を通じて、たった10人しか「少数派」の集団は現れず、主に補助的役割で登場することが示された。Loewensteinら(1964, L-14)の調査では、1962年の分析で、黒人の登場人物の男優や女優は、1時間半から2時間に1度程度しか登場しないことが示された。Lemon(1968, L-12)の調査では、1967年の分析で、「黒人」「東洋人」「プエルトリコ人」「インディアン」の登場人物が全ての広告の3.0%程度しか登場しないことが示された。そのうちの2.3%は「黒人」であった。これらの民族集団は、全てのバラエティ番組の4分の1、ドラマの5分の1には登場していたが、ごくわずかな役割しか与えられていなかったという。また、Maloney(1968, L-15)の調査では、1965年の3大ネットワークの5時間にわたるモニターで、その期間内に3人の「黒人」しか画面に登場しなかったことが示された。そのうち2人は3秒の登場にも満たなかったという。

これらの調査結果は、1970年以降に盛んに発表される内容分析研究の報告で、公民権運動を通じたメディア産業への要求の言説とともに、「白人」以外の「少数派」や、「黒人」やさまざまな「民族的少数派」集団が、テレビの世界でインビジブルな存在であることの仮説として、繰り返し引用され、登場そのものに着目した「人種」表現の内容分析研究を推進する強い問題意識を形成することになる。


5. 1970年代の時系列的分析を通じた「少数派」表現の変化と推移

1960年代後半から80年代後半にかけて、調査方法を統一することで登場人物の変化の推移を明らかにする研究事例が見られた。DominickやSeggar、U.S. Commission on Civil Rightsの研究事例は、10年の時系列的分析を通じて、「黒人」表現の推移と変化について明らかにしたものである。


 5-1 可視性の変化 〜メディア空間における表現機会の確保〜

DominickとGreenberg(1970, L-3)の調査では、CMを調査した結果、1967年から69年にかけて「黒人」登場人物のみられたCMの割合は、1967年で4.5%(全広告数は1573)、1968年で12.0%(全広告数は2023)、1969年で11.0%(全広告数は2363)と変化したことが示された。CMにおける「黒人」登場人物の全人数は、1967年で113人、1968年で208人、1969年で370人であった。全広告数は増加しているが、それ以上に「黒人」登場人物がみられる広告の割合も増加している。時系列的な分析により「黒人」不在のメディアには若干の変化がみられたことが明らかになった。一方、このデータでは「黒人」登場人物がみられる広告の割合は1967年から69人にかけて2.4倍増加しているのだが、登場人物は3.3倍に増加している。ここから、確かに「黒人」登場人物は増加しているが、一つのCMにより多くの「黒人」登場人物が登場している映像が浮かぶ。この調査では、一つの広告に登場する人物の平均人数を、「黒人」登場人物のみられない場合とみられる場合にわけてカウントしている。「黒人」登場人物のみられるときの登場人物の平均人数は、1967年で10.0人、1968年で7.0人、1969年で6.0人であった。これに対して「黒人」登場人物のみられない場合の登場人物の平均人数は、1967年で1.6人、1968年で1.7人、1969年で1.9人であった。この違いは明らかである。広告主は公民権運動を通じた「黒人」不座鵜のメディア表現の圧力の短絡的な解決法として多くの人を一度に登場させるというスタンスをとった(註11)。DominickとGreenberg(1970, L-3)らが述べるように「広告主が、これまで一人しか使ってこなかったような広告で、一人以上の「黒人」登場人物を用いているのみ」なのである。「見える」ものとなった「黒人」像のなかに「個人」の不在があり、それを通じて「白人」支配のメディア構造か「見える」ものとなった。それはすなわちメディア産業における主体的な「黒人」の不在なのであった(註12)

Bushら(1977, L-1)は、1973年と1974年の1週間のCMを調査し、DominickとGreenberg(1970, L-3)の調査との比較を行った。CMを調査した結果、「黒人」が登場したCMの割合は、1973年で15.0%、1974年で13.0%と変化したことが示された。CMに登場した「黒人」登場人物の全人数は、1973年の287人から1974年には143人に変化したことが示された。Bushら(1977, L-1)は、「黒人」登場人物みられるCMの割合が、1960年代後半から増加していることを明らかにした比較研究を通じて、『CMにおける「黒人」の利用に関する広告主の受容承認の増加』を論じている。これは広告内容面でもそうであった。両者の調査には「黒人」登場人物のみられる広告内容を、製品広告と公共サービスに分類したデータがある。その比率は、1967年(製品広告:公共サービス=3.5%:24.5%)、1968年(6.5%:19.0%)、1969年(9.0%:24.0%)、1973年(13.0%:36.0%)、1974年(12.0%:30.8%)と示された。このデータは「黒人」登場人物は製品広告よりも公共サービスの広告で登場しやすいことを示しているのだが、『モノの販売において「黒人」を用いることの系統的な増加(Bushら(1977, L-1)』も示している(表-1、表-2参照)

(表-1 click すると拡大します)


(表-2 click すると拡大します)

GreenbergとMazingo(1976, L-4)は、1973年の1週間のプライムタイムのCMを調査し、DominickとGreenberg(1970, L-3)の調査との比較を行った。その結果、CMの調査では、全登場人物の7.0%を占めた「黒人」登場人物が、全CMの14.0%に登場したことが示された(註13)

少なくともこうした比較研究を通じて、「黒人」イメージがメディア産業に求められていることは明らかになったのである。このことは表面的には不在という偏りの変化である。むろん、必ずしもこうした変化が、人権意識の広がりと結びついているとはいえないし、メディア表現における人種偏見がなくなったともいえない。しかし、公民権運動の後のこの増加が、例えキャンペーン的な増加傾向であっても、メディア環境のなかに「少数派」の占める空間が確保されつつあることを示しているのである。こうした事例をもう少しあげてみたい。

SeggarとWheeler(1973, L-24)、Northcottら(1975, L-17)、Seggar(1977,L-22)、Seggarら(1981,L-23)の調査では、ドラマにおける「黒人」登場人物の変化が示されている。その結果、「黒人」は全登場人物のうち、1971年で5.7%、1973年で5.5%、1975年で8.4%、1980年で7.6%と変化したことを示した。

U.S. Commission on Civil Rights(1977,L-29、1979,L-30)の調査では、ドラマにおける「少数派」登場人物の変化が示されている。登場人物を「白人」と「白人」以外に分類した結果、「白人」以外の登場人物の割合は、1969年で6.6%、1970年で9.2%、1971年で10.4%、1972年で14.1%、1973年で12.2%、1974年で14.6%、1976年で10.9%、1977年で15.1%と変化したことを示している。

Greenbergら(1980, L-6)は、1975年から1978年までの3年間のドラマの調査を通じて、黒人登場人物は、1975年で10.0%、1976年で11.0%、1977年で9.0%とやや減少傾向を見せたことを示した。

これらの結果は、一連の比較研究を通じてトレンドのうつろいやすさを示し、増加と減少のくり返しを示しているが、全体としては「少数派」登場人物の増加傾向を示し続けている。なによりも、初期の研究で示された不在の告発を思い起こすと、時代の変化のなかでの表現量の変化は一目瞭然なのである。

これらの研究と同時に、アドホック的に行われた調査を概観してみても同様の傾向がみられる。

Roberts(1971, L-20)は、1970年の一週間のネットワークのプライムタイムのCMのなかから、3分以上登場した職業的役割を持つ登場人物に限定して分析した結果、CMの半分には「黒人」登場人物が登場していたと示した。

Pierceら(1977, L-19)は、1972年の2週間のプライムタイムに放映されたネットワーク局のCM190種類を調査した。140のCMは「白人」登場人物が中心のもので、50は「黒人」登場人物が中心のものであったことを示した。全登場人物の7.9%が「黒人」登場人物であったことを示した。

Harveyら(1979, L-7)は、1975年と1976年の一週間のプライムタイムの66の番組を調査した結果、全登場人物の17.0%が「白人」以外の登場人物であったことを示した。そのうち9.0%は「黒人」登場人物であった。

Mauricio(1980,L-16)の調査では、1970年-1976年の1週間のプライムタイムと週末のネットワーク局のドラマを分析し、登場人物の割合は平均して「黒人」が8.0%、「ヒスパニック系」と「アジア系」が2.0%、「インディアン」は1.0%以下であることを示した。そのなかで「黒人」は1975年に大きく増加していたが、その他の「少数派」は同じ程度の表現は平均して同程度であることを示した。

Silvermanら(1979, L-25)は、1977-1978年にかけて、バラエティや映画、特別番組を含む一週間のプライムタイムのドラマ番組を調査し、678人の登場人物を分析した結果、「白人」以外の登場人物は17.0%程度であることを示した。

分析方法や分析対象の異なるこれらの研究を、一概に比較するわけにはいかない。とはいえ、可視性の増加、すなわち表現機会の増加であり、構造的にはメディア・アクセス機会の増加は、たしかにこうした内容分析研究の結果に現れている。

テレビは大衆に一義的に一方向的に影響を与えるものではなく、様々な集団の様々な選好のなかで視聴されるものである。こうしたなかで、「少数派」集団にとって、自らの像がインビジブルであること、ひいては役割モデルの不在が解消されることの意義は大きい(註14)

しかし、これは次に続く問いを投げ掛けている。人数や機会における増加が、表現の多様さという不偏に結びついているのであろうか、という問いである。


 5-2. 可視性のなかの欠如 〜キャンペインのなかの商業主義的表現〜

DominickとGreenberg(1967,L-3)のバラエティーショーの調査では、1967年で26.0%、1968年は40.0%、1969年では65.0%で「黒人」登場人物が登場すると示した。CMでは、ケタがようやく2ケタに上がった時代にである。つまり、変化の見られた番組はこれまで「黒人」が登場することの多かった内容のものにおいては顕著であったのだ。Weigelら(1980, L-31)は、1978年の一週間のプライムタイムドラマおよびCMを調査した。「黒人」登場人物はドラマのなかでが18.0%の番組で、77.0%分の時間で登場したという。一方、CMでは、95.0%の広告で「白人」登場人物が登場したが、「黒人」登場人物は20.0%だけであった。77.0%のコマーシャルは「白人」のみであったという。同様の傾向はOユKelly とBloomquist(1976, L-18)でも報告されている。

Downing(1974, L-2)は、1973年の15の連続ものドラマから20のエピソードを調査し、300場面に分類してから256人の登場人物を分析した。その結果、連続ものドラマに「白人」以外の登場人物は4.7%しか登場していなかったことを示した。Greenbergら(1980, L-6)の調査では、ドラマのなかでレギュラーな役割を持つ「黒人」登場人物は1975年で14.0%、1976年で13.0%、1978年で12.0%であると示された。一方、ゲストの役割として登場したものは8.0%、10.0%、7.0%であった。この間、「黒人」登場人物の人数はさほど変化がみられていなかった。

これらの結果は二つの意味で示唆的である。一つには、番組の種類のよっては「白人/黒人」登場人物の住み分けが見られるのではないか、という点である。二つには、「黒人」登場人物は連続的でレギュラーな役割を得ていないのではないか、という点である。後者は表現の変化の一つの見方を象徴的に表しているといれるだろう。つまり、表現の変化が単にセンセーショナリズムに終止したものではなかろうか、という見方である。

DominickとGreenberg(1967,L-3)は、『「黒人」はモノを売る際には活発になるようだ』と述べた。当時、伸び盛りの黒人経済市場と消費力に目をつけたメディアは、CMには「黒人」を登場させた。そのほうが売れるからである。しかし、日常生活の現実を描き出すドラマには「黒人」の物語が用いられるのはまれであった。マジョリティである「白人」視聴者を得られないからである。公民権運動を通じて、「白人」が黒塗りの顔で「黒人」を演じる番組を無礼であると批判し、「黒人」本人の主体的な参加を求め続け、可視性という点で変化が見られた。しかし、身体的に主体であり、運動の主体であり、現実生活を主体的に営む「黒人」は、「ゲスト」として表現されたのである。

SeggarとWheeler(1973, L-24)の調査では、登場人物を現実の国民の人口と比較を行っている。その結果、「白人」アメリカ人は国民人口との比較では過大(人口:テレビ表現:=70.0%:75.0%)に、「黒人」は過小(11.0%:6.3%)に表現されていることを示した。特に「白人」イギリスは人口では1.44%であるが、登場人物は6.6%となっており、「黒人」登場人物よりも多く登場している。こうして現実を写し出す鏡としてのドラマにおいて、『国家の人口の比率と整合性がない』ことを明らかにした。さらにNorthcottら(1975, L-17)、Seggar(1977,L-22)、Seggarら(1981,L-23)の一連の調査では、「白人」登場人物は1971年(80.9%)から1980年(88.2%)の期間でさらに増加したことを示した。1976年にはアメリカの人口構成の11.5%、1978年では11.7%の人口を占めた「黒人」はドラマでは6%から8%で推移した。人口の約8%を占めるその他の「少数派」はドラマでは、1971年(11.7%)、1973年(7.3%)、1975年(4.2%)、1980年(2.7%)と、一貫して減少したことを示した。

U.S. Commission on Civil Rights(1979,L-30)の調査でも、1975年から1977年に放映されたドラマにおける「多数派男性」:「多数派女性」:「少数派男性」:「少数派女性」の比率を、1975年のアメリカ国内の現実の人口と比較している。その結果は、ドラマ(62.7%:24.1%:9.6%:3.6%)なのに対し、現実(39.9%:41.6%:8.9%:9.6%)であると示した。ドラマを現実と比較すると整合性がなく、「女性」の場合それが顕著であった。

この結果が示すように、短期間をカバーしたサンプルのデータ・コレクションでは、目にすることができるようになったという「黒人」像の変化も、長期的に見るとドラマにおける「白人」像の支配の強調や、その他の「少数派」像の消失のという背景のなかでおきた変化であったこと理解できる。

こうした傾向は、テレビ表現における「トークニズム」として、名目だけの人種差別廃止という姿勢を浮き彫りにし、状況の変化や改善への疑問を投げ掛けるのである。

商業主義的なメディアの姿勢のなかで、テレビにおける可視性が増すことは、多様性に結びつくどころか、しばしばセンセーショナルな扱いになったり、焦点がぼやけたりすることにつながることがある。メディアの人種観は、可視性だけから論じられるものではない。可視性のなかに見られる定義付けの枠組みが、メディアの意味の生産の変化、つまりこの場合は公民権運動を通じたメディアの人種表現の変化を明らかにする。そこで次に役割について分析した内容分析調査の事例を論じる。



 5-2 伝統的ステレオタイプの補強〜トークニズムとダブル・マイノリティ〜

DominickとGreenberg(1967,L-3)やBushら(1977,L-1)は、CMに登場する「黒人」登場人物の役割表現を「主役」「脇役」「背景的役割」に分類した。それらの比率は1967年(主役:脇役:背景的役割=17.5%:34%:48.5%)であったのが、1974年(47.8%:27.0%:26.8%)と大きく変化したことを示した。明らかに「主役」として登場するものが増加する傾向が見られた。一方、時間ごとにみると、1968年から1969年のシーズンではプライプタイムのCMでの「主役」としての登場(1968年:13.%、1968年:7.0%、1969年:28.0%)は、デイタイムよりも低かった (22.0%、29.0%、30.0%)。この傾向は1973年から74年のシーズンでは逆転しており、プライムタイムでの「主役」としての登場(1973年:48.0%、1974年:45.5%)の方がデイタイム(38.0%、50.0%)よりも多くなる傾向がみられた。登場の役割の変化は放映時間によって異なっていたことが明らかになった。

プライムタイムとデイタイムを分けて分析しているのは、次のように考えてよいだろう。一般的に考えてプライムタイムの視聴率は高く、テレビ局はプライムタイムを幅広い関心のもたれやすい番組で編成する。商業放送であるテレビ局の番組の重要度は時間によって異なる。よってプライムタイムに「黒人」が登場するか否かを調査することは、「黒人」登場人物の役割における重要度を探ることができるからである。よって、プライムタイムのCMにおける「主役」の増加は、二重の意味で「黒人」表現の役割における地位の向上を明らかにしたといえる。

一方、DominickとGreenberg(1967,L-3)のドラマの調査では、昼間のドラマの「黒人」登場人物は1967年で25人だったものが1969年には70人と変化し、役割についても主要なパートで描かれる人物が増加した。一方、プライムタイムでは、人数の多い背景的な役割がほとんどであり、『スクリーンには十分に長い時間写らず、意味ある発言をするには人数が多すぎて、登場していたとは言えない』ことが示された。GreenbergとMazingo(1976、L-4)の1973年のドラマの調査では、「黒人」登場人物のうち18.0%が主役として登場し、30.0%は脇役で、52.0%は背景的役割で登場したことを示した。明らかにCMで「主役」として登場する割合よりも低くなっている(註15)

ここでも、プライムタイムという商業的な時間意識のなかで、「黒人」表現がなされていたことが分かる。つまり、商業的に重要な時間で商業的な広告でのみ表現の変化がみられたという傾向である。本稿では概観しないが、子供番組のCMにおける「少数派」登場人物像を分析した研究のほとんどが、初期の研究と同様に、「少数派」登場人物の過小さを示してきたのは象徴的である(註16)

Bushら(1977,L-1)は1974年の調査を、南部地域と西部地域の2地点で調査しているが、西部地域での「主役」としての登場が51.5%であるのに対し、南部地域では44.0%と地域差が見られた。Bush(1977,L-1)は西部地域と南部地域の黒人視聴者層の経済格差を原因として推測しているが、南部地域のメディア産業に根強い黒人差別も背景にあると考えられるであろう。いずれにせよ、役割表現における「主役」の増加傾向はテレビの商業主義的な価値観のなかでのみ見られたのであり、こうしたなかでのみ「黒人」表現の役割における平等が明らかにされたのである。メディアの伝統的な人種観が商業主義的指向と結びつくとき「トークニズム」批判が行われる。これは公民権運動後に生まれた、表に現れない隠された人種差別主義、つまり近代的人種主義の浮上と関連しているといえるだろう(註17)

このような「トークニズム」に対して、Seggarらの一連の調査では、性役割表現や職業役割表現の観点からさらに言及している。

SeggarとWheeler(1973, L-24)の調査では、1971年に「男性」と「女性」の全登場人物の人数を比較した結果、「東洋人」の「女性」のみが44.1%と多い以外は、「女性」の表現は平均で18.3%と「男性」と比べて少ないことが示された。

Seggarら(1981, L-23)の調査では、明らかにドラマ上で役割を持つ登場人物を分析した結果、「女性」は1971年(20.8%)、1973年(25.6%)、1975年(31.5%)、1980年(39.1%)と上昇傾向が維持されていることが示された。これらの傾向についてSeggarらは、メディアにおける女性の自由運動を反映であると述べている。しかし、これらをエスニシティーの分類ごとに見ると、Northcottら(1975,L-17)の調査が示すように、「白人女性」人数の増加傾向が顕著で、「黒人」やその他の「少数派」は登場頻度が増加しても、全体から占める割合はあまり変化しないか、逆に低くなる傾向が示された(表-3参照)

(表-3 Clilckすると拡大します)


Seggarらの一連の調査は「民族的少数派」と「女性」の表現を分析したものである。そのなかで、これまで「人口の半分を占める少数派」と揶揄されてきたメディアの「女性」表現の変化と、メディアにおける「女性」の地位向上を評価しながら、一定の論点を提起した。まとめるなら、公民権運動が起きれば「黒人」表現を、次の女性の自由運動が起きれば「女性」表現を、と態度を変えるテレビの姿勢は、キャンペイン的な姿勢であったということである。つまり、社会運動を商業的に利用したキャンペインであった、ということである。女性の自由運動を通じて、テレビの世界で姿を表したのは「白人女性」なのであった。このなかで「少数派」は、そして「少数派の女性」の表現は多くの意味でインビジブルに戻ったのである。

Northcottら(1975,L-17)の調査では、「専門」「管理」「サービス」などの職業役割表現ごとに登場人物を分類しているが、1971年と1973年ではその内訳に変化が見られた。「白人男性」の内訳には差がさほど見られず変化も少ないが、「黒人男性」は「専門」の分野の1971年(37.5%)から1973年(6.7%)への減少し、「サービス」の分野では1971年(12.5%)から1973年(64.4%)と増加した。「黒人女性」も同様の傾向であるが、「主婦」を含む「専門」「管理」「サービス」以外の職業が1971年(26.7%)から1973年(66.7%)と増加したことが示された。Northcottら(1975, L-17)は、「黒人」が高い地位について登場することが少ないことや、『「白人女性」はより頻繁に登場し、伝統的に男性にとってのものであった職業について登場している』と述べている。

これらの事例から、メディアの機能である「補強」のもう1つの側面が明らかになる。つまり、メディア表現の世界に新たに登場するものは、それまでその範疇に見られた伝統的なステレオタイプをより強く反映するという補強のあり方である。そして、商業主義的でキャンペイン的な表現の変化は、既存の価値観の強化に繋がるのであると考えられる。

Hintonら(1974,L-9)の調査では、ドラマの「黒人」表現の質から「トークニズム」を分析した。「黒人」の役割表現の向上から、メディアへの「黒人」批評の成果を評価して、『テレビ産業は「黒人」や「少数派」によってもたらされた圧力を感じとっており、よりよい意味での混乱の中で、少なくとも変化への責任を感じており、それらは黒人表現の変化にあらわれている』と述べた。しかし、一方では、『「黒人」はマージナルな役割で描かれており、ちょっとした場面や脇役で表現されたときの好意的な「黒人」の人物像が生まれても、テレビ世界の「白人」の脅威とはまったくならない』とも述べている。Seggar(1977,L-22)が述べるように、それは『メジャーなマイノリティー』という新しい範疇の生成と写ったのである。

Seggarら(1981,L-22)の調査では、ドラマの登場人物を「主役」「補助役」「脇役」「部分役」に分類した。これを性別・エスニシティーごとに分析した結果、「男性」のうち、「白人」の「主役」は1975年(83.3%)から1980年(87.2%)と変化するなかで、「黒人」の「主役」は9.0%から4.4%に減少したことを示した。「補助役」も同様の変化であった。「女性」はこれと同様の傾向がより強くあらわれ、「白人」の「主役」は1975年(86.7%)から、1980年(96.0%)にのぼり、「黒人」の「主役」は9.6%から2.4%へと減少したことが示された。その他の「少数派」では、「男性」の「主役」は8%前後なのに対し、「女性」の「主役」は3.6%から1.6%へとますます減少した(表-4参照)

(表-4 クリックで拡大します)


こうした役割の重要度の変化から、明らかにされたのは、メディアへの「黒人」批評や公民権運動などの社会的事象の背景による「黒人」表現の量的な平等の実現と、時代の変化のなかでメディアが表現した見せかけの「人種観」のポーズであった。それはまた「少数派」の「女性」という「ダブル・マイノリティー」を生み出す過程をも明らかにし、「少数派」のなかの「多数派」という「黒人」像の生成を明らかにしたのである。


 6. 職業表現と相互作用表現の量的内容分析

Poindexterら(1981)は、「黒人」とテレビに関わる研究のレビューを視聴行為や表現、影響などの観点から行い、当時のアメリカの社会・行動科学では「少数派」や貧困に対する注目すべき研究は7%程度であるとし、「黒人」とテレビの研究についてのアジェンダ設定の必要性を訴えた(註18)。MacDonald(1983)は、タレントやメディア産業における雇用の平等が実現し「黒人」表現の改善は見られるが、表現のステレオタイプ化は残ったままであると述べた(註19)。例をあげればきりがないが、Signorielli(1981)が述べるように、テレビにおける「少数派」表現の研究は、登場そのものへ関心を向けた研究から、より場面に密着した表現や、受け手との関わりを含めた表現へ関心を向けた研究へと広がりを見せてゆく(註20)



 6-1. コーディング・カテゴリーと役割に関する言説 

こうした表現についての数量化による内容分析の1つに、職業役割表現の分析がある。例えば、DominickとGreenberg(1967,L-3)は昼間のドラマの「黒人」の最も顕著な職業は「医学に従事するもの」であったことを示したし、Roberts(1971,L-21)の調査では、1970年の1週間のネットワークのプライムタイムのドラマの「黒人」登場人物は「法律」に関する職業で登場しやすいことを示した。しかし、こうした具体的な職業表現は番組のコンテクストに依存し、一概に量的な視点で論じることはできない。SignorielliとGerbner(1978)はドラマで「黒人」は「肉体的」なことに関わる職業を表すことが多いことを示し(註21)、PierceらのCMの調査(1977)は「黒人」登場人物にはブルーカラーが少なく、モノを分ける/モノを仕込む/モノに対して好意的などと示した(註22)。こうした行為と職業の間が不明瞭な項目も、その調査の意図や独自性によって解釈が分かれ、簡単に比較検討できない。U.S. Commission on Civil Rights(1979,L-30)の調査では、「少数派」登場人物の男性はよりコミカルな役割を担い、シリアスな役割で登場することが少ないことを示しているが、この例でわかるように、職業役割の分析には俳優の背景や、俳優として雇用されている人物の偏りなどの視点が欠けている場合がある。Liebann-SmithとRosen(1978,L-13)が指摘するように、そもそももとの登場人物が過小な表現をされているなかで、具体的な職業表現に偏りがある傾向にあることは容易に推測がつく。

以下、いくつか具体的な分析事例をいくつかあげてみたい。「黒人/インディアン」は「殺される」より「殺し」やすく、「女性」と「白人/アジア人/ヒスパニック」はその逆(Mauricio 1980, L-16)......「黒人」登場人物は「白人」よりも暴力的ではないが、「黒人」以外の「少数派」は「白人」よりも暴力的(Harvey 1979, L-7).....「黒人」登場人物は、性的言葉の攻撃を使わないが、一方では、身体的に親し気な、抱擁やキスは、めったにない(Silvermanら 1979, L-25)ノノ「アジア人」は犯罪ドラマで登場しやすい(Turow 1980,L-28)ノノ「黒人」登場人物のより服装はフラッシーであり「白人」はコンサバティブな服装(GreenbergとBaptista-Fernamdez 1980, L-6).......などなどである。個々の調査の目的は様々であり、ここでその結論を紹介することはしない。ただ、こうしたコンテクストに依存する「言説」の分析を量的に行う場合は、その結果が既存の「黒人」や「少数派」をめぐる「言説」を、どういった形で参照し、補強し、物語っているのかを明らかにする必要があるだろう。詳細で記述的な内容分析をこうした形で整理しておくことは、内容分析そのものがこうした「言説」と化し、使い古された神話の再生産とならないためにも求められるのである。

ただ、こうしたなかにも量的に示唆的な事例がある。表現そのものを指し示すものではなく、方法的な問題である。SAG(1974)は、1973年のドラマとコメディーで「少数派」登場人物の職業的表現について、理解できる職業で登場した「アジア系アメリカ人、ネイティブアメリカン、スパニッシュ」は全登場人物の7.0%以下、「黒人」は6.3%であったことを示した(註23)。Turow(1980,L-28)の調査では、ドラマには「黒人」や「アジア人」は「ブルーカラー」の労働者としてよく登場しているが、「白人」以外のエスニック・グループは職業分類では「その他」に分類されるような職業で登場しやすいことが示された。Mauricio(1980,L-16)によると、「少数派」の表現は、「白人」よりも調査上の職業分類においてコーディングがしずらく、「ネイティブ・アメリカン」の74.0%、「ヒスパニック系」の47.0%、「黒人」の45.0%は職業表現でコードができなかったという。このようにコード化できないという方法上の分析から、登場人物の増加傾向のなかにおいて、役割表現上では「インビジブル」であり続ける「少数派」人物像の存在が少し明らかになる。

上記の具体化および具体化できないという問題は、内容分析の方法に欠かせないコーディングという作業に関わるものである。内容分析はしばしば職人芸風に語られ、社会科学のディシプリンの中で方法論には常に疑問が持たれてきた。しかし、コード化という作業のなかで、浮かびあがってくるもの、すなわち、受け手という立場から逃れられないコーダーの存在や、主観や主意的な読み、コードの不一致が、歴史的に権威の与えられた言説に対して疑問を投げかけるときがある。U.S. Commission on Civil Rights(1977,L-29)の『一貫して連続する不明瞭な役割重要度における機会の削減の過程がある』という漠とした言葉は、こうした内容分析の限界であり、かつ可能性のうちから現れてきたものでもあろう。



 6-2 相互作用のなかのステレオタイプ 〜不在の浮上〜

Lemon(1977, L-10)の調査では、1975年のコメディーと犯罪ドラマの登場人物の相互作用を分析した。「男性と女性」、「黒人と白人」の関係において、それぞれ2人の登場人物が、支配的か非支配的か、同等かの3つの局面にわけ、相互作用の表現を量的に把握した。その結果、役割重要度が最も好意的な描写に結び付いており、「性別」や「人種」によってではなく、役割重要度によって関係の支配、非支配が決まることが示された。またLemon(1978, L-11)では、「人種」と「性別」では、「性別」のほうが支配関係には強く影響することを示し、「黒人女性」は家庭の場面では限定的に「白人」より支配的であることを示した。

Lemonの研究は、人物の登場量の観点からは現実社会に近づきつつあるテレビの世界における、人間と人間のコミュニケーションに着目した。しかし、こうしたメディア世界では、これまでの「多数派」であった「白人」と新たに登場した「黒人」やその他の「少数派」とのコミュニケーションに歪みがあったことを示す研究事例がある。

たとえば、Reid(1979,L-20)の調査では、コメディーを対象に「人種」の構成ごとの表現の変化について分析した。その結果、「黒人」が中心の番組に登場する「白人」は、「黒人」と「白人」が同じように登場する番組や「白人」ばかりが登場する番組よりも、ネガティブに表現されていることを示した。Weigelら(1980,L-31)の調査では、コメディでは52%の「黒人」が、ドラマでは59%の「黒人」が人種間相互作用を行ったことを示した。しかし、人種間相互作用は形式的で友好的ではなかったという。またWeigelとHowe(1982, L-32)の調査では、「黒人」が6.6%分の時間しか登場しなかったため、人種間相互作用はほとんどなかったことを示した。このように、テレビの世界での「人種」における多様化は、登場人物のコミュニケーションそのものに変化を与えたのではなく、これまでとは別種の番組やストーリーの中で、つまり別種のメディア空間のなかで展開されたことが示唆されていたのである。

相互作用の分析からも、テレビが普及した初期の時代の「人種」ステレオタイプの台頭と類似した傾向を読み取ることができる。初期のこの事例とは、U.S. Commission on Civil Rights(1977, L-29)が1950年代のテレビの分析を通じて指摘した、「アジア系」や「ヒスパニック系」の登場人物のキャンペーン的な増加傾向がかえって偏見を含む表現へと導いた事例や、「黒人」はコメディーで、「ネイティブアメリカン」はウェスタンで、「アジアン・アメリカン」は「カンフーもの」ばかりで登場するといった番組ごとの「人種」の住み分けなどの事例に見られる、旧来のメディアの人種主義にあったステレオタイプ化の姿勢である。つまり「人種」表現に関して新しい登場人物像の生成のなかに旧来の人種主義を再び見て取ることができるのである。


7. おわりに

以上、テレビの「人種」表現に関する数量的な内容分析研究の知見と動向を、おもに1980年以前の研究事例を中心に概観してきた。概観を通じた「人種」表現の変化について、主に「黒人」登場人物の描写の変化の観点から簡単に整理しておきたい。

それまで目に着くことが少なかった「黒人」登場人物は、公民権運動を背景に、次第にテレビの画面で登場する機会が増加した。この現象にはメディアの商業主義的な背景があると考えられる。

CMやドラマなどの内容別に登場の仕方が異なっていた。登場の仕方だけでなく、登場する番組も「白人」と「黒人」登場人物では異なっていた。実際に目にする機会が増大した「黒人」登場人物は、主体的な登場というよりも、ゲスト的で脇役的な登場をしていた。背景にはメディア産業への少数派の雇用が少なく、白人の視点から「黒人」が描かれるという構造があった。その構造は公民権運動を通じて批判してきた表現の構造と奇妙にも類似している。しかし、「黒人」登場人物の増加傾向と役割における平等は、この期間においてもある程度次第に改善する傾向がみられた。

そのようななかで、「黒人」以外の「少数派」登場人物は変化を見せないか、かえって減少する傾向がみられ、キャンペイン的に増加した「黒人」表現によってその他の「少数派」の表現が圧縮される図式が明らかになった。女性の自由運動が盛んになると、キャンペインの対象は「白人女性」に移り、「民族的少数派」全体が減少し、特に「民族的少数派の女性」の描写は激減した。このように目に見える/目につかないといった登場そのものの変化は、たしかに社会運動の反映ではあるが、社会運動をキャンペインととらえるメディアの商業主義的姿勢のなかで行われたことも見のがすことができない。描写の機会が安定した後も、近代的人種主義的な描写における線引きや、くり返される「黒人」の物語の神話や伝統的人種観の利用など目につきづらい形で、偏見や偏向がメディア表現に残った。あるいは、変化のなかでも再浮上する偏見や偏向が明らかになった。

つぎにやや図式的にはなるが、内容分析の結果から示され続けた「偏り」について、その背景と意義について四点にまとめて整理してみたい。

第一の「偏り」は、一面的な大衆観に導かれた番組種目の編成とテレビのさまざまな民族集団への無関心や人種的無知を背景とした、メディアの「民族的少数派」表現の不可視性であった。つまり、メディアで表現されないことそのものをあらわす偏りである。

第二の「偏り」は、社会運動とその商業主義的利用による可視性の増加を背景とした、キャンペイン的で一時的な表現のあり方であった。つまり特定の期間のみへの表現の「偏り」である。

第三の「偏り」は、センセーショナリズムのなかでテレビ内容が人種間覇権の闘争の場となったことを背景とした、メディア空間の住み分けによる偏りであった。

第四の「偏り」は、マイノリティがマジョリティへと変化するにあたり、既存のマジョリティの言説を取りこむことで起こる権威の再生産を背景とした、既存の伝統的価値観への回帰ともいうべき「偏り」の再浮上である。

概観した一連の研究を通じて「民族的少数派」や「黒人」の登場人物像が変化する際のステレオタイピングは、上記にあげた「偏り」の再生産にみられるものと述べておきたい。さらにもう一つあげるとしれば、メディア表現の世界に新たに登場するものは、それまでのその範疇に見られた伝統的なステレオタイプをより強く反映するというメディアの補強機能の一側面である。

今回、概観してきた研究やプロジェクトの多くは、テレビの「人種」表現が現実を図像的に表象しているか否かを問題意識としている。その論理のなかでは、「偏り」はテレビ表現における現実性の歪みの表象にほかならない。「偏り」以前の、また「偏り」から導かれた「不在」とは、テレビが「少数派」なしに「多数派」を表現するという「頭」で描いた映像であった。その「頭」は、ときにテレビ産業のエグゼクティブであり、ときに産業を成立させる商業主義であり、ときにテレビという窓のなかのコンテンツであった。身体的な描写のなかで、「個人」の不在が明らかになり、メディア産業における主体性の不在が明らかになり、他者を疎外して不在が再生産されることが明らかになるノノこれは「頭の中の映像」という歪んだ現実が明らかになることなのである。このように、内容分析研究は数量的な「偏り」から「不在」を明らかにし、現実の歪んだ「人種」観についての知見をも提供するのである。

最後に日本の「外国」要素の研究について若干触れておきたい。筆者は、これまでの「白人系」登場人物への偏向が変化し、「アジア系」登場人物が、特に「アジア系」の「女性」登場人物が増加する傾向を報告した。この変化は、テレビにおける位置や役割に関して、アメリカで1970年代に報告されているおけるテレビの「黒人系」登場人物の登場の変化と類似している傾向がある。これまで日本のテレビの「白人」登場人物が多いことは、テレビの欧米指向の指標とされてきた。しかし、それに加え、本稿の概観をふまえると、メディア・ステレオタイピングの構造変化と言う面でも、欧米指向の傾向がみられるのではないか、と考えざるをえない。この変化のなかに新たな偏向と伝統的な日本の「外国人」観というエスニシティー研究の課題の台頭がみられるのではないだろうか。




概観文献

(L-1:(註24) ) Bush, Ronald F. Solomon, Paul J. Hair, Josepf F. Jr, "There are more blacks in TV commercials", Journal of Advertising Research, 17.1, pp21-25,1977

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(L-23:(註42))Seggar, John F., Hafen,Jeffrey K.,Hannonen-Gladden, Helena, "Television's Portrayals of Minorities and Woman in Drama and Comedy Drama 1971-1980", Journal of Broadcasting, 25:3,1981

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(L-33)Wright, Charles R. , "Mass Communication: A Sociologocal Perspective", Random House, pp81, 1959



脚註

 (註1)本稿で「」付けで用いられる「人種」「民族的少数派」「黒人」「外国人」などの用語は、概観の対象となった研究論文の方法の調査項目を表し、翻訳上また調査上の操作的な使用の範囲を越えない。

(註2)公民権運動を通じて行われたメディアの「黒人」表現批判に関わる文献については、「Keiser, Ernest, "Black Images in the Mass Media: A Bibilography", Freedomways, 1974:3, pp274-287」に詳しい。当時の"New Black Culture"のなかで「詩/演劇/映画/小説/エッセイ」の動向を扱ったもの、および、どのような公民権運動関連団体がメディア活動を行い、どのような出版物を発行したかがわかるものである。

(註3)Berelson, Bernard, "Contents Analysis in Communication Research", Hafner Press, 1971

(註4)アメリカの「人種」表現との関連に着目するにあたり、国内におけるテレビの「外国」要素の研究のなかでも、特に「外国人」の表現について分析した研究を考慮している。例えば、 (1)小坂井敏晶「異文化受容のパラドックス」, 朝日選書, 1996 (2)萩原滋・御堂岡潔・中村雅子「テレビの中の外国・外国人−日本のテレビにあらわれた外国要素の内容分析−新聞学評論, 1987, No.36 (3)Haarmann,Harald, "Symbolic Values of Foreign Language Use: From the Japanese Case to a General Sociolinguistic Perspective", Mouton de Gruyter Berlin/New York, 1989 (4) Ramaprasad,Jyotika., Hasegawa,Kazumi, "An Analysis of Japanese Television Commercials", Journalism Quartery, 67:4, 1990 (5) FCT(市民のテレビの会),「テレビが映しだす「外国」と日本の国際化」, FCT第7回FCTテレビ診断報告書, 1991 (6)萩原滋「日本のテレビCMにおける外国要素の役割慶応義塾大学新聞研究所年報, No43, 1994 など。内容の変化については、拙稿「CMにおける「外国人」登場人物像に関する実証的研究マス・コミュニケーション研究, No51, 1997を参照のこと。

(註5)外国で作られた番組の供給を扱うものや、国際ニュースのイッシューは「どこの国のニュースか」、などを扱うものが「外向きの国際化」を背景とした研究であるとするなら、ドラマや広告の登場人物の頻度を扱う研究は「内向きの国際化」を背景とした研究であるといえよう。

(註6)拙稿「「人種」表現に関する内容分析と社会〜アメリカにおける公民権運動と内容分析調査〜」, 成城コミュニケーション学研究, 1999

(註7)例えば、「メディアと暴力」というテーマが社会的関心をもたれ、その背景で文化指標に関する研究が内容分析研究を軸に行われた。これらの潮流と意義に関しては、水野博介「文化指標研究と涵養効果研究-そのアイデア・発展・現状と評価-新聞学評論、40、pp274-290、1991

(註8)基礎資料として網羅的に概観した論文紙は、「Journal of Advertising Research」「Journal of Broadcasting and Electric Media」「Journal of Communication」「Journalism Quartely」の4紙である。

(註9)アメリカにおける「民族的少数派」「人種」表現に関する内容分析調査の動向に関しては、(1) Gordon, Thomas F., Verna , Marry Ellen , "Mass Communication Effects and Processes -A Comprehensive Bibliography, 1950-1975-, SAGE publications, 1978 (2) Signorielli, Nancy, Milke, Elizabeth, Katzman, Carol, "Role Portrayal and Stereotyping on Television: An Annoted Bibliography of Studies Relating to Women, Minorities, Aging, Sexual Behavior, Health, and Handicaps", Greenwood Press, 1985 (3) Cooper, Thomas W., Suillivan, Robert, Weir , Christpher, Weir Peter , "Television Ethics :A Bibliography", G.K. Hall Co. Boston, 1988 などが参考になる。

(註10)分類の仕方は多種多様である。本稿で『「白人」登場人物』という場合は、「White」という項目で分類が行われているものか、ある項目が「White」を表すと明記されているものである。多くの分類は「White」に対して別の項目を比較しているが、その項目は多様であり「Deviant」「Ethnic Minority」「Other Minority」「Nonwhite」などの項目となっている場合がある。これらの項目にプチ的に具体的な「Ethnicity」や「Race」という項目が設けられている場合がある。それらは必ずしも明記されていない場合もある。つまり方法に関しては「White/Ethnic Minority」としか分類していないとあるのに、「Asian」の人数が記されている場合もある。『「黒人」登場人物』という語は、「Blacks」「Negroes」などを訳出したものであり、論文上は研究者によって用いられ方はまちまちであるが、本稿では便宜的に同一に統一した。

(註11)Bushら(1977, L-1)

(註12)時系列的な内容分析の資料は、しばしばメディア産業における少数派の雇用のデータと並列されていることがある。U.S. Commision on Civil Rights,(1977, L-26)はその代表である。この報告書の冒頭では、大統領にあてた手紙として以下のような勧告を行っている。「本報告は放送における公民権に関する二つの論点に焦点をあてる---ネットワークテレビにおける「少数派」と「女性」の表現と、テレビ局における雇用であるノノ. 本報告の結果、「少数派」と「女性」は雇用機会と表現においてある進展が見られたにも関わらず、「少数派」の「女性」は、ドラマ番組やニュースにおいて過小な表現となり続けており、表現はステレオタイプ化したものであった...... 本報告は、さまざまな人々、産業、すべての共に働きこの状況を改めることができる人に向けられている。その勧告は以下の3点である。

1. テレビは正確に国家におけるエスニシティとジェンダーの多様性を反映すべきである

2. 「少数派」と「女性」はこれを十分にもたらすよう参加すべきである

3. 米国政府はこれらがなされるように保証すべきである

(註13)参考までに触れておくと、LicataとAbhijit(1993)の調査ではさらに同様の手法で比較し、35%のCMで「黒人」が登場し、その登場頻度の安定した上昇を示している。本稿で扱うデータは現在のアメリカのテレビの「民族的少数派」や「黒人」表現を表しているわけではない。

(註14)「民族的少数派」表現が役割モデルや自我形成に与える影響などについては、Greenberg,Bradley S., Atkin,Charles K.,"Television and the Socialzation of the Minority Child",Academic Press Inc.,1982を参照のこと。

(註15)なおこの調査では、CMにおける「黒人」登場人物についても、18.0%が「主役」、65.0%が「背景的役割」と報告されている。本論の述べていることは、これまでのCMの調査と比較した場合、ドラマでの「主役」での登場の割合が低いということである。

(註16)Barcus, F. Earleの一連のACT(Action for Childrenユs Television)主催の研究を参照のこと

(註17)近代的人種主義とメディア表現の関係については、ニュース番組の分析を通じて議論している(1) Entman,R.M. , "Modern Racism and the Images of Black in Local Television News", Critical Studies in Mass Communication, 1990, 7, (2) Entman, Robert M., "Representation and Reality in the Portrayal of Blacks on Network Television News", Journalism Quartely, 1994, 71,3 が詳しい。

(註18)Poindexter, Paula M., Stroman, Carolyn A., "Blacks and Television, A Review of the Reseach Literature", Journal of Communication, 25,2, 1981

(註19)MacDonald, J. Fred, "Blacks and White TV: Afro-Americans in Television Since 1948", Chicago, Nelsen-Hall Publisher, 1983

(註20)Signorielli, Nancy, "Content Analysis: More Than Just Counting Minorities", In "Search of Diversity: Symposium on Minority Audience and Programming Research", Washington D.C., Corporation For Public Broadcasting, 1981, pp97-108。そのタイトルが表すように、数えるだけでなく.....という指摘である。社会心理学研究が貢献し蓄積してきたテーマで内容分析研究に幅を持たせようという主旨の論考である。

(註21)Signorielli, Nancy, George Gerbner, "Women in Public Broadcasting: A Progress Report", The Annenberg School of Communications, University of Pennsylvania, Philadelphia, March 1978

(註22)Pierce, Chester M., Jean V. Carew, Diane Pierce-Gonzalez, Deborah Wills, "An Experiment in Racism: TV Commercials", Education and Urben Society, 1977, 10.1, pp61-87

(註23)SAG Documents Use of Women and Minorities in Prime-time television, Screen Actors Guild news release, Oct, 31, 1974

(註24)1973年-1974年にかけてABC, CBS, NBSのネットワーク局で放映された放送が対象。1973年は6月16日-22日にかけて、西部地域を対象に、昼間/1:00-4:00pm()、プライムタイム/7:30-11:00pm(6月16日-22日)を調査した。1974年は11月5日-11日にかけて、西部地域と南部地域を対象に、昼間/1:00-4:00pm、プライムタイム/7:30-11:00pmを調査した。調査対象は上記の期間中の全放送内容である。なお、分析項目については、DominickとGreenberg(1970, L-3)とほぼ相同であるのでそちらを参照に。

(註25)この資料はドラマの女性表現に焦点をあてたもの。女性表現の研究のなかの「人種」表現の結果についてはまたいずれ改めて概観したい。1973年に放映された二週間のデイタイムの連続ものドラマを対象に、性別/人種/職業役割/暴力行動ノ.などの項目で調査した

(註26)1967年-1969年にかけてABC, CBS, NBSのネットワーク局で放映された放送が対象。調査はランシンとミシガンで行われた。対象は、1967年は、昼間/1:00-4:00pm(7月24日から30日)、プライムタイム/7:30-11:00pm(7月17日から23日)を、1968年は、昼間/1:00-4:00pm(11月10日から16日)、プライムタイム/7:30-11:00pm(11月10日から16日)を、1969年は、昼間/1:00-4:00pm(10月30日から11月5日日)、プライムタイム/7:30-11:00pm(11月7日から13日)の間の全放送内容である。対象となった番組は、ドラマ/バラエティ/ゲームショー/CMの4項目に分類され、放送時間/放送日/チャンネル/ネットワーク/広告の製品の型/登場人物の数/「黒人」登場人物の数を分析した。「黒人」登場人物に関しては、性別や、役割(主役か脇役か背景的役割)、登場の仕方(単独で登場するか/「白人」とだけ登場するか/「黒人」だけで登場するか/両方で登場するか)、話すかどうか、広告の製品を持ったり使ったりするかどうか、などが分析項目である。

(註27)1973年に行われた調査で、一週間のプライムタイムのドラマとCMを分析したものである。DominickとGreenberg(1970, L-3)とほぼ相同の対象と分析方法で行われたものである。30の番組と366のCMを対象に調査した。

(註28)1975年-1978年にかけてプライムタイムと土曜の午前に放映されたネットワーク局のドラマ番組255と 3549名の登場人物を対象に、人種/性別/年齢/法律を破ったもの/職業/登場した番組の型を調査した。

(註29)1977年の1週間のプライムタイムと土曜の午前のドラマ番組81を対象に、L-5で行われた調査項目に加え、コンテクストや社会的相互作用の分析を行っている。「黒人」登場人物は43人、「白人」登場人物は101人の発話する役割を担ったが、それらが調査対象である。

(註30) 1975年-1976年に行われた調査で、一週間のプライムタイムの66の番組と946人の登場人物を対象に調査した。

(註31)1952年3月-5月(13週間)の期間に、ニュートークのネットワークで放送された64タイトルのドラマを対象として(連続ドマラはそのなかから一回放送分をランダムに選択)、ドラマ番組種別/テーマ/背景となる場所/登場人物の人数・性別・年齢・職業・民族・社会階級およびその描かれ方の姿勢などを分析している。「民族」の項目で示される内訳は「Deviant/Nondeviant」であり、「描かれ方」としては「bad」「Unsympathetic」という項目が分析されている。

(註32)1973年2月-5月にかけて、5:00pm-11:00pmにネットワーク局で放映されたドラマ全てから30分づつの133のユニットを無作為抽出したものが対象である。エスニシティ/ジェンダー/役割重要度/魅力・敵意・支配/非支配の関係について登場人物の態度を分析した。

(註33)1975年3月のテレビガイドにリストされた、全てのプライムタイムの犯罪ドラマとコメディーの放送が対象である。ここから相互作用(言語的/非言語的相互作用で、明らかに二人の間でかわされたもの)が行われた場面のみを抜き出し、支配、非支配の関係を同数に無作為抽出によって揃えた。登場人物は、性別、スター/レギュラーな登場/レギュラー以外という登場の仕方などで分類されている。「他人を影響あるいは統制しようとする、説得する、禁止する、命令する、導いたり指図する、抑止する、集団の行為の組織化をする」という定義が「支配的」な関係を扱う上での基準である。

(註34)対象や方法はLemon(1977, L-7)とほぼ相同で分析視点が異なる。

(註35)1970年-1976年の各一週間のプライムタイムと週末の午前のネットワークドラマ番組を対象に調査を行った。74%が「男性」、87%が「白人」、8%が「黒人」、2%が「ヒスパニック/アジア人」で「インディアン」は1%以下であったと報告されている。また、1975年のサンプルで、「黒人」登場人物が増加していたのが確認されたが、その他の「少数派」はどのシーズンも同じ程度の量の表現にとどまった。

(註36)1971年4月の6:30pmから11:00pmにかけて放映された96時間分のドラマと、1973年2月の 6:30pmから11:00にかけて放映された120時間分のドラマが対象である。ネットワーク局で放映されたドラマが対象である。1971年では394の劇上の職業的役割表現が、1973年では679の職業的役割表現が分析された。分析項目はSeggarとWheeler(1973, L-23)とほぼ相同である。

(註37)1973年の28日間の19時から24時までの期間で3大ネットワーク局で放映されたすべての番組およびCMを28時間分サンプリングを行い、それを対象に調査した。大人向けの番組では「黒人」登場人物は7.4%、それに対しその番組に含まれたCMには2.8%しか登場していなかった。子供番組やニュース番組も同様の傾向だった。

(註38)1972年2週間のプライムタイムのネットワーク局で放映されたCM190を対象に調査を行った。

(註39)1977年に放映された28のコメディーを対象に、登場人物の「人種」構成および行為の差異について分析を行ったものである。110人の登場人物が分析され、12に行為変数によって「人種」ごと/性役割ごとの分析が行われている。本論では触れていないが、「男性」の「黒人」と「白人」の行為に有意な差は見られていない/「女性」は「白人」よりも「黒人」のほうが教養があり支配的である/「黒人男性」は達成という項目で高い特徴があるが「黒人女性」は低いなどの結果が指摘されている。

(註40)1970年の一週間のネットワークのプライムタイムのコマーシャル588本を対象に、3分以上登場した職業的役割を持つ登場人物を分析を行った。

(註41)1971年-1975年までネットワーク局で放映されたドラマが対象である。以下の放映時間から、各々30分づつの50ユニットを無作為抽出に抽出し125時間分のドラマ番組を分析した。

1971年、5週間の平日の3:30-11pm, 土曜日曜の10:00-11pm(1940の役割を分析)

1973年、5週間の平日の3:30-11pm(3278の役割を分析)

1975年、5週間の平日の3:30-11pm(5576の役割を分析)

分析項目はSeggarとWheeler(1973, L-23)とほぼ相同である。

(註42)1971年-1980年まで放映されたネットワーク局で放映されたドラマが対象である。以下の放映時間から、各々30分づつの50ユニットを無作為抽出に抽出して分析した。

1971年の2月7日から3月6日まで/週内30分単位無作為抽出

1973年の2月5日から3月10日まで/週内30分単位無作為抽出

1975年の2月3日から5月8日まで/全体30分単位無作為抽出

1980年の2月4日から3月8日まで/全体30分単位無作為抽出

分析項目はSeggarとWheeler(1973, L-23)とほぼ相同である。

(註43)1971年2月-3月にかけて毎日3:30pmから11:00pの間で放映された全てのネットワーク局で放映されたドラマ(土曜は、5週間分午前10:00-11:00を加えてある)から無作為抽出法を用いて、30分分の250ユニットを選びだしたものが対象である。登場人物に関しては、1830の個別の表現を対象に、職業的役割/性別/エスニシティ/演技時間が分析されている。

(註44)Ford Foundationによって設立されたAdult Education基金によるNational Association of Educational Broadcastersの企画による3調査がレビューされている。前述のHead (1952)もこの一部である。含まれているのは (1) 1952年-54年までの3年間の1月期間中にニューヨークで放映された一週間分の番組の調査 (2)1951年5月のロスアンゼルスで行われた調査 (3)1952年5月のニューヘブンで行われた行われた調査である。それぞれの調査は同様の手法で行われたものである。このなかでも登場人物に関する分析は(1)の調査のなかで1953年に行われたドラマを対象とした調査から導かれている。

(註45)1976年-1977年の期間に放映された33のコメディー以外のドマラについての登場人物の職業役割表現の分析である。この研究がユニークなのは内容分析の対象を「スクリプト」に求めている点である。放映されたドラマの「スクリプト」製作を行う企業のデータを用いて、登場人物の分析を行っている。

(註46)1969年-1974年まで毎年行われている調査であり、毎月一週間分の8:00pm-11pmまでに放映されたドラマと、土曜午前の子供向けドラマが対象に、登場人物の性別/人種、年齢、経済的地位、家族における役割、職業的役割、暴力的行動の有無を分析している。

この報告書で用いられたデータは、ペンシルバニア大学アネンバーグ校の「Cultural Indicator プロジェクト」によって扱われたデータである。このプロジェクトはNational Institute for Mental Healthが代表で、George GerbnerとNancy Signorielliが統括して行ったテレビモニター調査の代表的なものであり、テレビの暴力行動を分析したものとして有名である。「Cultural Indicator プロジェクト」については、例えば(1) Gerbner, George, Gross, Larry, "Living With Television: Violence Profile", Journal of Communication, 29:2, 1976 (2)Gerbner, George, Gross, Larry, Jacson-Beeck ,Marilyn, Jeferies-Fox, Suzanne, Signorielli, Nancy "Cultural Indicator: Violence Profile no.9", Journal of Communication, 28:3, 1978 (3)Gerbner, George, Gross, Larry, Morgan, Maichel, Signorielli, Nancy "The Mainstreaming of America: The Violence Profile no.11", Journal of Communication, 30:3, 1980 など学術雑誌に発表されたものが多数あり、「民族的少数派」登場人物に触れているものもある。しかし、U.S. Commission on Civil Rightsの報告書は、「女性と少数派」に焦点をあて登場人物を中心にこのデータを分析したものであり、データの重複を避けるためにも本稿では「Cultural Indicator プロジェクト」の資料は概観から除外してある。

(註47)U.S. Commission on Civil Rights(1977,L-26)とほぼ同様の手法で行われた調査の報告書である。対象となるドラマは1975年から1977年に放映されたものである。

(註48)1978年の1週間のプライムタイムのコメディー、ドラマおよびCMを対象に、人種間相互作用の分析を行った。63時間分のドラマにおける91の人種間相互作用と980の広告を分析した。

(註49)1979年の土曜の午前の子供向けネットワークテレビの番組を3週間分析したものである。




 
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本論文について

要 旨
 「白人」以外のさまざまな「民族的少数派」集団が、テレビの世界でインビジブルな存在であることを明らかにした研究は、人間の登場そのものに着目した「人種」表現の内容分析研究を推進する強い問題意識を形成しました。
 1960年代後半から80年代後半にかけて、長期間に数多くの内容分析研究が行われ、メディア環境のなかに「少数派」の占める空間が確保されつつあることを示しています。
 一方では、表現の変化の見られたテレビ番組は、これまでも「黒人」が登場することの多かった内容のものにおいて顕著であったり、レギュラーな役割を持つ「黒人」登場人物が少ないなど、表現の変化が商業主義的なセンセーショナリズムに終止したことも明らかになっています。
 こうした傾向は、テレビ表現における「トークニズム(名目だけの人種差別廃止)」いう姿勢を浮き彫りにし、状況の変化や改善への疑問を投げ掛けました。メディアは、センセーショナリズムのなかで、人種間覇権の闘争の場となりました。マイノリティがマジョリティへと変化するにあたり、既存のマジョリティの言説を取りこむことで、権威の再生産が起こり、メディアの価値観は既存の伝統的価値観へ回帰しています。

特 徴
 これまで日本ではあまり紹介されてこなかったアメリカの学術論文誌で発表された調査報告や資料を整理して紹介しているのが特徴です。

解 説(簡単な)
 「トークン」とは、あまり役立たない小銭、という意味です。バスに乗る際に使うような小銭のことです。それが転じて、名目だけの人種差別撤廃、という意味で使われています。公民権運動では、バス座席での人種隔離が、大きな問題に発展しました。メディアも同様です。

Backstage
 この論文の資料収集のため、アメリカ国会図書館に行った際のこと。請求した資料に一通の請求証がはさまれていました。その請求証を書いたのは、なんと日本で向社会的行動とメディアの研究をなさっている方で、学校は違えど先輩としてお世話になっている方でした。海を越えての偶然に、どれほど驚いたことでしょう。
 

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